フォレスト・リードが1905年に発表した作品。1947年にはこの作品を書き直し、Denis Bracknel として「再発表」している。後者のほうは、わたしはまだ読んでいない。
ブラックネル家は金持ちの家にありがちな人々で構成されている。父親は事業家で、金儲けや実務の能力で人を判断する。彼には情婦がいて、情婦に子供をつくらせてもいる。母親はそんな夫のそばでおどおどと主婦業に専念している(主婦業と言っても女中のいる立派なお屋敷に住んでいるのだが)。子供は節操のない我が儘な人間ばかりだ。長男はばくちや競馬にうつつを抜かし、仕事はまるでできない。家族に秘密で結婚し、早々に結婚したことを後悔している。二人居る二十代の娘はどちらも跳ね上がりで、自分の思うようにいかないとぷんぷんと怒り出す。ただ十五歳の一番下の息子はおとなしく、内向的で、あまりしゃべらず、ちょっと秘密めいたところがある。
その一番下の息子(デニス)のために若い家庭教師が雇われた。彼は住み込みでデニスの先生になる。
もちろん娘二人は、この若くてハンサムな家庭教師を放って置くわけがない。あの手この手を使って接近を試みるのだ。
こんなふうに粗筋を書くと、じつに平凡な話、どこか喜劇めいたところさえある物語のように思えるだろう。しかし全体の雰囲気はその逆で、ゴシック小説のような不気味さをどことなく漂わせている。それがこの小説の魅力でもある。書こうと思えば思い切り通俗的にも喜劇的にも書けるのだが、なぜか時代遅れのゴシック風の書き方をした小説なのだ。
なぜそんな書き方をするのかというと、作品の中心人物(ここではデニス)が想像力と感受性に富んだ少年であり、世の中の悪を敏感に感じ取り、どこにも所属することができない、繊細な人間だからである。彼は自分の世界に閉じこもり、外の世界のグロテスクなありようにふるえ、おびえる。家庭教師である語り手はそんな彼と世界をつなぐ架け橋になりそうであったのだが、残念ながら物語の最後で悲劇が訪れるのだ。
わたしは以前「春の歌」という、これまた内向的な少年を描いた作品を読み、その異様さに圧倒されたが、この二作を見る限り、フォレスト・リードというのはなかなか興味深い作家である。ジョイスに影響を与えたとも言われる「暗闇を追って」やジェイムズ・テイト・ブラック記念賞をとった「若きトム」なども読んで見ようと思う。
関口存男「新ドイツ語大講座 下」(4)
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