いちばん最初の挿話、「塩分の価値」を読んだとき、これは有名な三部作とは根本的に質が違うなと思った。これはインパールのジャングルに屯営する一個中隊の物語である。糧食の輸送が困難なため、彼らはいつも定量の六分の一しか食事が与えられない。
あるとき命令受領の上等兵がこんな話をした。輜重隊の軍馬は塩が欠乏して腰が抜けている。ところが馬は人間より賢い。行軍の際、彼らは尻尾をさかんに振って、身体の汗を尻尾に含ませる。その尻尾を後ろからついてくる馬が舐める。こうやって塩不足を補っているのだそうだ、と。
それを聞いて中隊のメンバーは、敵機の攻撃の合間を縫って跳んだり跳ねたりしきりに身体を動かし、汗をかくことにした。そして伍長の号令「しゃぶりかた、始め」とともに、自分の腕や身体に浮き出た汗を舐め始めるのである。
これは悲惨を通り越して滑稽ですらある。わたしは兵隊の日常のグロテスクさ、馬鹿馬鹿しさを見事に表現していると、読みながら感心した。
火野葦平は兵隊三部作ばかり賞賛され、読まれているようだが、「青春と泥濘」もそれらに劣らない傑作である。いや、こっちのほうが日本軍賛美の意図がなく、兵隊の生の感情をもっと忠実に描いている。
Tuesday, July 23, 2019
マリ・ドルトン「跪く女の謎」
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