ウィリアム・スミスは1942年にドイツの収容所から解放された。しかし解放されたとき、彼はそのとき以前の記憶を完全になくしてしまっていた。自分の認識票には「ウィリアム・スミス」の名が記されているが、それが本名かどうかもわからない。
イギリスに帰って名前を手がかりに自分の過去を探ろうとしても成果は上がらなかった。彼はおもちゃ屋で動物のおもちゃをつくって生計を立てる。まじめに働き、新しいおもちゃを作り出す才能もあるので、彼はおもちゃ屋の主人から信頼され、さらに彼の遺産まで受け継ぐことになる。
さらにおもちゃ屋にきた新しい助手、美しい女性と恋に落ちる。二人は結婚し、「ウィリアム・スミス」は新たな人生を歩み出すかのように思われた。
ところが、まず彼の記憶がちょっとずつ戻り始める。それと同時に彼は命を狙われるようになる。過去を失った彼には殺されなければならない理由がまったくわからない。彼が記憶を取り戻すと、都合の悪い人がいるのだろうか。それだけではない、彼が結婚した女性というのが、なんと……
これが小説の前半の山場となる。
ミステリと記憶喪失は切っても切れない縁がある。とりわけノワールの部門では記憶をめぐって名作がいくつか書かれている。映画の「ブレードランナー」もこのテーマの変形版といえるだろう。「ウィリアム・スミス事件」にノワールの風味が付け加わっているのは、記憶をテーマにしているせいである。
しかし残念ながらこの作品が記憶というテーマに新しい光を当てているかというと、そうではない。ウェントワースがつまらないのは、人間の存在を脅かすどんな要素も結局ある種の秩序内に回収されてしまう点である。事件は調和のとれた世界に偶然生じた乱れであって、それはミス・シルバーという探偵役の老婦人によってただされるだけなのだ。
ミス・シルバーがあらわす調和とか正義とか秩序とはいったいなにか。それは彼女が編み物をしている客間に如実に示されている。ヴィクトリア朝風の家具と飾り付けをした部屋、そこにくる刑事が安全や安らぎを感じる部屋だ。つまりヴィクトリア朝風の、前時代的な調和であり、正義であり、秩序なのである。ネタバレは避けたいと思うので、やや曖昧な書き方をするが、本書においては華族はその無能さにもかかわらず「被害者」であり、ヴィクトリア朝時代に経済的実力をつけ華族を没落させていった中産階級の人間にすべての罪が背負わされている。彼らの死によって調和、すなわち華族たちにとって都合のよい調和が回復されるのである。
わたしは女流作家によるミステリやスリラーを好むが、ウェントワースは凡庸な作家だと思う。
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