Thursday, November 21, 2019

「戦線に立ちて」

ヘッケルというドイツの文人が陸軍大尉として第一次世界大戦に従軍したときの記録である。芹澤登一という人の翻訳で大正五年に出版された本だ。(国立国家図書館デジタルコレクションで読める)漢文と口語がまじった、当時よくある文体で書かれている。去年の暮れ頃からずっと戦争文学に目を通しているが、翻訳作品の中では文章がいちばんいい。漢文は表現を引き締め、文章に一種の張りを与える。漢文の素養のない人の文章は弛緩した、だらだらしたものになりやすい。

白國人はマース河の橋を爆發したが我が工兵は、急速架橋の作業をしたので、我等は其の朝に於て、安らかに之を渡ることができた。ウヰゼ市の光景は、我等をして凄絶の感にたへざらしめたけれども、而も亦莊觀であつた。広莊なる建物の既に灰燼となり去つたものがあれば、數寄を極めた家の未だ全く燒け盡さゞるものあり、又新に黑煙を吐く高樓があれば、今將に燃え移らんとする巨屋あり、街あり、街に連なる火焔は赫々として天に沖し、巷より巷に續く濃煙は濛々として地を蔽ひ、ものゝ爆ける音、落ちて碎ける音、罵る聲、叫ぶ聲、慘として地獄の劫火を見るが如き心もしたのである。

適当にページを開いて引用してみた。名文とは言わないが、簡にして要を得た、気持ちのいい文章である。ドイツ語をこれだけの日本語に翻訳・移植するのは並大抵のドイツ語力、日本語力ではないといわざるをえない。

作者が文化人であるため、戦争中であるにも拘わらず戦地の博物館を訪ねたりするなど、ずいぶんおっとりした、貴族的なおもむきを持つ、という点をのぞけば、普通の従軍記である。自国の正義を信じ、そのために命をなげうち、泥にまみれ、土の味のする糧食を食べ、ほんの偶然から部下は死に、自分は助かる。ただおなじ文人の作者ではあっても、「敵はほかにいる」と書いた大岡昇平の「俘虜記」と較べると、その認識はやはり鋭さを欠いている。

独逸語大講座(20)

Als die Sonne aufging, wachten die drei Schläfer auf. Sofort sahen sie, wie 1 schön die Gestalt war. Jeder von ihnen verliebte sich in 2 d...