Thursday, November 28, 2019

今日出海「山中放浪」

今日出海は第二次世界大戦中、報道班員としてフィリピンに渡り、米軍によって壊滅的打撃を受けた軍隊とともにルソン島の山中を放浪した。本書はその記録である。

作者は戦闘員ではないが、それでも生死の境目を彷徨する。身体も弱いし、年齢も四十を過ぎている。とても若い兵士たちと行動をともにできるような人ではないのだが、米軍に制空権を握られ、空の便で日本に還ることなど不可能。生きたければ、ひたすら潰走する軍といっしょに逃げるしかなかった。そのぎりぎりの状況がじつに見事に描出されている。

しかもこの作者の描写には知性がある。知性というのは戦争批判とか、日本文化批判とか官僚主義への批判を意味するのではない。そうしたものへの鋭い批判は本作にも見つかるが、わたしが知性的というのは彼の描写の背後にある認識である。彼は絶えず現実がねじれて奇妙な反転現象を起こすことに気がついている。このねじれや反転現象は平時でも起きているのだが気づかれにくい。しかし戦時という異常事態においてはじつに明白にあらわれる。マルクスは資本主義の本質が恐慌においてもっともよくあらわれ、フロイトは人間の精神の本質は精神病においてもっともよくあらわれると考えたが、それとおなじである。

たとえば次のような描写。作者は軍隊の車に乗って山道を逃避行することになる。アメリカ統治時代に道は「みごとに改装され」、急坂であっても楽にのぼれる。九十九折りの単調な山道に作者は思わずうつらうつらとする。そして真夜中近くにはっと目が覚め、自分がどこにいるのか気づくのだ。

私は車を降りてあっと驚いた。羊腸たる山道の片側は底も知れぬ断崖である。闇のことでむろん底など見えぬが、それでも谷の深さは漠然と推し測られる。
 「どうして谷の深さは想像くらいの域じゃありませんよ」
 とこの道をかつて通ったことのある池田伍長が言う。
 それよりもこの凄いばかりの静寂はどうだ。静寂とは物音がしないということではない。百虫ことごとくが声を限りに鳴いているのだ。あの声の中には夜鳥もいることだろう。それが谷底の方で一つの協和音となってごうっと共鳴し、上昇してくるのだ。これが夜の声というのだろうか。千古の嶮仞の音というのだろうか。私にはそれが恐ろしい静寂の姿として身に迫ってくるのだ。

気がつけば眠気を誘う単調さはどこへやら、それとはおよそ正反対の、人間の知覚を圧倒し、その存在を脅かす何か、カント風に言えば崇高なるものに直面している。虫の騒然たるすだきが静寂として感じられるという感覚の異常は、この場が退屈な日常性の反転した世界であることを強調しているだろう。これは芭蕉の俳句(閑さや……)とはわけが違う。なぜならこの静寂は明らかに死と通じているのだから。ふと気がつくと作者は寝る前にいた世界とは別の世界、生の世界ではなく死の予感に充ち満ちた世界にいた。この羊腸たる山道はメビウスの輪のようだ。表を進んでいると思ったら、いつのまにか裏に出ているのだから。

この奇怪なねじれ、反転現象は本書の随所にあらわれる。

それにしても我々のいる方では生き物一匹おらず、食うに困っているのに、川一つ向うには涎の出そうな豚や鶏が悠々と散歩しているのは異様な風景だった。

川を越えた向こうは現地の人々が住む場所で、こちら側には日本軍の本部がある。日本軍はアメリカ軍に見つからぬよう山の中に身を潜め、山中のトカゲから虫、雑草に至るまで食い尽くしている。ところが現地の人々がいる場所では家畜が闊歩しているのだ。連続した時空間なのに、どこかにねじれがあって彼我の地において対照的な様相が展開されている。作者はそれを「異様な風景」と表現して驚いている。

道路一つが天国と地獄、生と死をわけることもある。作者はルソン島を脱出し台湾は屏東の町にたどりつく。そこでアメリカ軍の空襲に出会うのだが、彼は防空壕に逃げ込んで助かる。ところが空襲後、外に出て驚いた。たった一つ道を隔てだだけの、すぐそばの地域は爆撃で壊滅し、死体が累々と転がっているのだ。道のどこかで空間はねじれ、連続しているにもかかわらず、彼我の空間ではまったく様相が異なるのだ。

位相が完全に反転するこのねじれこそ、作者が戦争から得た認識なのだと思う。次の一節も印象的だ。

下りにかかると十国峠のような草山である。美しいなだらかな山々の稜線が霧の上にうッすらと見える。この風景は一種独特の美しさがある。画のようだといっても日本画でもなければ油画でもない。ともかく初めてみる景色だとうっとりしていたが、隣りにいる浜口伍長は運転手に怒ったように、
「もっと早く走れんのかなア」
 と舌打ちする。「この車は牽引力はあるけんど、速力はだめだなア」
 彼のもどかしがる理由は、こんな遮蔽物が何もない草山で夜が明け放れ、敵機が来たらどうするかというのであるが、私はそれを聞いただけで、今まで恍惚として見とれていた風景がとたんに呪わしくなり、あわてて地図を出して案じたが、附近に我々が入り込むような部落は見当らぬ。

あれは大岡昇平だったろうか。平時なら子供が遊ぶのどかな原っぱも、戦時となれば一気に駆け抜けねばならない危険な距離となる、と言ったのは。

さらにこのねじれは、戦争の現場で軍隊の悲惨さを知る者と、それをなにも知らず大言壮語するだけの日本人とのあいだにも存在している。これは本書の最後のほうに長々と描かれている。あんまり長いから引用はしないが、これを読んでわかるのは、戦争の現場と日本は空間的にはつながっているが、そこにいる人々の認識は完全に断絶しているということだ。両者の認識は完全にすれ違っている。その差は話し合いによって埋められるようなものではない。ある種の連続性がありながら、両者は決定的に非連続なのだ。言ってみれば、右翼から見た「おのれと左翼との差」は、左翼から見た「おのれと右翼との差」とまったく接点を持たないようなものだ。このねじれに気づいて怒りだした作者は、思わず日本の報道記者たちと大げんかを演じてしまう。

本書の最後にはじつに痛々しい事件が描かれている。台湾から日本へいく飛行機になんとか乗せてくれと作者は軍部に頼み込むのだが、なかなか順番が回ってこない。ついに乗る機会を得たが、彼はそれを親友の新聞記者に譲ってしまう。その翌日電話がかかってきて、驚くべき知らせを耳にする。新聞記者の乗った飛行機は飛び立ってすぐにB24に追跡され撃墜されたというのだ。この運命のねじれに作者は「戦争だ、戦争だ」と叫ぶ。わたしも読んでいてさすがに胸が痛くなった。作者の認識は単なるポーズでもなければ、机上の空論でもない。敵襲に死ぬほど怯え、食糧事情の悪さに歯も全部折れ、骨が見えるほどの潰瘍をわずらい、幽鬼のような姿になって逃避行をつづけ、大切な親友を失うというやるかたない悲しみの中から生まれてきた認識である。

今日出海の「山中放浪」は日本のルポタージュ文学の中でも屈指の名作だと思う。

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