Sunday, March 1, 2020

数学と国語

数学は答があるからわかりやすい。でも国語は答が一つじゃないし、曖昧だから、わかりにくい。世間的にはそんな評価が蔓延している。

数学というのは無矛盾の体系を作ろうとする。すくなくとも二十世紀の初めまでは、そのようなものを作ろうとしていた。ところが数学を基礎づけるはずの集合論に決定的なパラドクスが発見され、ゲーデルが数学という試みの不完全性を証明してしまった。無矛盾の体系を作ろうとしても、そこには証明も反証も不可能な領域が存在してしまうことを「証明」してしまったのだ。本当は数学はそこまで勉強しなければならない。

証明も反証も不可能な領域。そう、数学にだって答は一つじゃない、曖昧な領域があるのだ。中学や高校ではそこまではいかないから数学は答がはっきりしている、などと思うのである。

文学(テキスト研究)は数学が自壊する地点をはじめから含んでいる。排中律の成立しない領域に於いて思考を展開しようとする。しかし排中律が成立しないからと云ってメチャクチャが展開されているわけではないのだ。ハムレットじゃないが、狂気の中にも一定の論理がある。その論理は案外数学的(トポロジカル)であったりするのだが。

関口存男「新ドイツ語大講座 下」(4)

§4.  Solch ein kleines Kind weiß von gar nichts. そんな 小さな子供は何も知らない。  一般的に「さような」という際には solch- を用います(英語の such )が、その用法には二三の場合が区別されます。まず題文...