ピーター・スワンソンという作家が「完全犯罪の規則」という作品を出版するにあたり、ガーディアン紙に完全犯罪を扱った小説について記事を寄稿していた。(Making a killing: what can novels teach us about getting away with murder?)この中の一節が面白かった。
完全犯罪は完璧なソネットか完璧なローストチキンのように、近づくことはできるけれども、決して到達できない理想である。探偵や物語の伝統が到達することを妨げるのである。
それはそうだ。完全犯罪であっても探偵の登場するミステリでは解決されなければ逆に面白くない。まあ、解決の糸口すらつかめず、「なんという完璧な犯罪だろう」と名探偵が感嘆して終わる作品があってもいいけれど。
それはともかく、これを読みながらわたしは、究極の完全犯罪とはなんだろうか、と考えた。単に証拠が残らない犯罪とか、犯人が捕まらない犯罪というのではつまらない。スワンソンは完全犯罪をソネットにたとえているが、完全犯罪にはある種の芸術性が必要なのだ。
そのとき、ああ、そういえば、と、クリスティーの「ネメシス」という作品を思い出した。これはミス・マープルが出てくる作品で、別に完全犯罪を描いたものではない。「ネメシス」の特徴はなかなか殺人が起きない点である。普通は百ページも読めば(どんなに展開の遅いミステリであっても)必ず殺人が起きるのだが、この本ではそれがなかなか起きない。十代の頃に読んだので内容はおぼろなのだが、確かミス・マープルが依頼人とともに豪華客船に乗り、旅する様子が延々と描かれている。
わたしは「ネメシス」を読みながら、ひょっとしたらこれは究極のミステリになるのではないかと期待した。いつまでたっても殺人は起きない。平凡な日常がどこまでも続くだけだ。ところが本の最後でミス・マープルが、なにも起きていなかったようだけれど、じつは犯罪が起きていたことを指摘し、さらに厳密な論理を用いて犯人までもぴたりと当てるのではないか。
そんなことを期待しだしたとたんに殺人が起きて、わたしはがっかりした。ミステリを読みながら、殺人が起きてがっかりしたのは、後にも先にもこの一回しかない。
しかし、わたしがふと思いついた究極のミステリは、なかなかいい完全犯罪を描いているといえるのではないだろうか。一切の波風を立てず、起きたことも気づかれないような犯罪。日常の中に反日常(殺人)が織り込まれるのだけれど、織り込まれたことがまったくわからない。こんな犯罪なら完成度において芸術的といえるのではないか。もちろんそれを見破る探偵も、それこそ神のような探偵だろう。
Sunday, March 22, 2020
ジョン・ラッセル・ファーン「栄光の輝きに照らされて」
原題は Reflected Glory。他人がつかんだ栄光だけれども、その人と関係のある人が、まるで自分の栄光であるかのように感じる、という意味だ。「親の七光り」という日本語が示す事態と、よく似ていると云っていい。 女流作家のエルザは、ふとしたきっかけから画家のクライブと知り...
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