Friday, March 20, 2020

ミステリと集合

ミステリという形式がなぜ文学作品の中によく取り込まれるのか。アラン・ロブ・グリエとか、大西巨人とか、錚々たる大文学者が、なぜミステリに魅了されるのか。知的なゲームだからか。それともこの娯楽形式には文学が思考を巡らさなければならない問題点を含んでいるからなのか。

わたしはミステリという形式には妙な問題が含まれているからだと思う。たとえば集合という観点から見たとき、ミステリが表現する集合はずいぶん奇怪な集合である。

ミステリ小説の本文が始まる前のページにはよく登場人物表が載せられている。あれを見ながら誰もが「この中の誰かが犯人だな」と考える。そこから除外される人間ももちろんいるだろう。シリーズものの名探偵の名前や、その助手などは、犯人ではないと考えられる。そんなふうにして残った人間が「犯人かもしれない人の集合」を形作る。

この「犯人かも知れない人の集合」には変な特徴がある。まず、この集合は犯罪を構成した人間によって意図的に作られた集合である。そして彼自身がその要素として集合の内部に存在している。もしも犯人がアリバイ工作をして犯罪を犯し得ないような見かけを作ったとした場合は、彼は空集合として「犯人かも知れない人の集合」の中に存在している。(自己言及性)

それ自身を含む集合というのは数学でも出てくるが、ミステリの扱う集合にはさらに変な特徴がある。集合の要素のあいだに要素らしさの(つまり犯人らしさの)濃淡がつくられるのだ。それはそうだ。犯罪を構成した犯人は、自分にもっとも容疑がかからないようにする。集合を構成した、その集合の要素がもっともその集合にふさわしくないような見かけを作り出すのである。(錯視効果)

こうした数学の集合とは異なる、ミステリの集合の奇怪さの中に、人間あるいは主体の問題が内包されているのではないか。ラカンが集合論について、主体の問題を捨象したところに成立していると云ったのはこのことではないか。

独逸語大講座(20)

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