Friday, May 29, 2020

マージェリー・アリンガム「悪党の休日」(1935)

この物語の根底にあるのは一通の遺書である。ヒロインであるジュディ・ウェリントンの裕福な親戚は、こんな遺書を残した。もしもジュディが二十四歳になるまでに結婚していたなら、巨額の遺産は彼女の夫の手に渡る。もしもジュディがそのときまでに結婚していないなら、巨額の遺産はマルガリータ・ファーニイに渡る。ジュディが死亡した場合も遺産はマルガリータのものとなる。

これを知ったジュディの後見人はケチな詐欺師を見付け、ジュディと結婚させようとする。法律家である彼は、詐欺師にはそれなりの報酬を払っておいて、残りの巨額の遺産を自分のものにしようとしたのだ。

マルガリータのほうも黙ってはいない。彼女は後見人の監視のもとにあるジュディを奪い取り、かつそのあとで彼女を殺害しようとする。

まさにジュディにとっては前門の虎、後門の狼だが、そんな彼女を窮地から救い出すのが、彼女に一目惚れしたスコットランドヤードの刑事デヴィッド・ブレストである。彼はジュディの父親や、退職警官の力を借りて愛する人を魔の手から守ろうとする。

本書は作者がマックスウエル・マーチ名義で出した二作目の作品だ。出だしはミステリっぽい感じだが、すぐに冒険談、あるいはメロドラマにすぎないことがわかる。なにしろ刑事であるデヴィッドが事件の渦中にあるジュディに恋をするのだから、いわゆる正統派の「推理小説」にはなりようがない。正統派の「推理小説」においては、探偵は事件の外に位置している(あるいはメタレベルの視点を保持している)のであり、事件の内部に巻き込まれてはいけないのだ。

しかしメロドラマと言っても、これはよくできたメロドラマである。展開がじつに小気味がよく、各章がはらはらする場面で終わるからどうしても「もうちょっと、もうちょっと」と読み続けてしまう。人物も個性豊かに書き分けられている。現実逃避の軽い読み物としては、秀逸なほうだろう。もちろんメロドラマらしい定型的な(そして陳腐な)表現も見られる。たとえばこんな感じだ。

デヴィッドがボートに這い上ると、彼女は疲労の極みにあった。二つの櫂はどちらも海に落ちてしまってなく、彼女は上体を起こす力もないようだった。彼女は子供のように彼にしがみつき、肩にもたれて泣いた。

本書のクライマックスにあたる部分で、「疲労の極み」とか「子供のように」のような手垢のついた表現にでくわし、わたしはちょっと鼻白んだ。

さらにメロドラマらしいわけのわからなさもこの作品はそなえている。その最大のものは、ケチな詐欺師と結婚させようとする後見人のもくろみを、ジュディはなぜはねつけないのか、まったく説明がない点である。父親が冤罪で牢屋に入り、出獄後は幼いジュディに対し、自分は彼女の「叔父」であると正体を偽ってきたことが、関係ありそうだが、明確な説明はどこにもない。読者は誰しも疑問に思うところだろうに。

終わり方もメロドラマやロマンスにありがちな、しかし満足感を与えるものとなっている。いちばん最後の場面でデヴィッドとジュディは別れを告げ合う。デヴィッドはなぜジュディに結婚を申し込まないのか、読者は怪訝に思うだろう。そのときジュディは彼にこう呼びかける。

 「デヴィッド!」
 「なんだい?」
 「デヴィッド、も、もしかして遺産が気にかかるの?」
 「うん」と彼は短くこたえた。
 「あたし、遺産を受け取らなければならないの?」彼女の声はひどく小さかった。彼は彼女に近づき、彼女が横たわるベッドのそばにひざまづいた。

そう、彼女は遺産を放棄する。デヴィッドが身分の差を気にして愛を告白できないでいることを見抜いたのだ。そして彼と結婚し、刑事のつつましい給料で生きていくことを表明する。遺書はそれまで彼女の生死を左右するほどの力を持っていたが、ここでそれは完全に力を失うのだ。遺書のせいで物語がはじまったのだから、遺書の力が失効した時点で物語が終わるのはしごく当然である。ロマンスの幕切れとして、まず上々の出来だろう。

作者のアリンガムはのちにキャンピオンを主人公にした不思議な作品を書くようになるけれど、出発点において彼女はメロドラマ作家だったということがよくわかる作品だ。

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