本書はアリンガムがはじめてミステリに手を染めた作品らしい。チャロナーという警部が活躍する。前回レビューした「悪党の休日」より七年も前に書かれた作品で、比較するとやはり小説技術のつたなさが目立つのはいたしかたない。物語をおおざっぱにまとめるとこうなる。
ディーン邸に住むクラウザーは誰からも嫌われる不愉快な男だった。彼の召使いもコンパニオン(おもに話し相手をする住み込みの付添人)もクラウザーを蛇蝎のように嫌っていた。さらに隣の屋敷ホワイト・コッテージに住むクリステンセン夫妻、その女中、乳母、クリステンセン夫人の妹もクラウザーに嫌がらせを受け、彼を憎んでいた。
そのクラウザーがホワイト・コッテージで銃殺される。彼を殺した機会は上にあげた人々全員にある。動機も全員にある。全員がクラウザーを憎んでいたと公言しているのだ。チャロナー警部ははるばるフランスまで出向いて一人一人の隠された過去を探るが、はたして犯人を特定できるだろうか。
「悪党の休日」はメロドラマだったが、これはミステリである。チャロナー警部は容疑者たちの取り調べをはじめたとたん、彼らの冷たい視線を感じる。彼らには他の人には知られたくない秘密があるのだ。チャロナー警部が感じるこののけ者意識、部外者感覚に遭遇して、わたしはこの作品はミステリだなと思った。「悪党の休日」はミステリのような始まり方をしながらメロドラマになっていったが、これはそういうことにはならないだろうと思った。この前も書いたけれど、探偵というのはメロドラマの外部に位置しなくてはならない。ディーン邸、ホワイト・コッテージ邸で繰り広げられるドラマを外形的にとらえる視線、立場を確保していなければならないのだ。
ドラマを外形的にとらえる視線というのは、じつは精神分析と通じるところがある。精神分析は人間の行為や反応を意識から説明することはない。行為や反応はあくまで外形的にとらえかえされる。無意識は意識の奥底にあるのではない。行為や反応の外形にあらわれる。それゆえ探偵の思考は精神分析の思考とよく似てくる。たとえばクリステンセン夫人は結婚前にグレイという男と親密な関係にあったことが判明するが、チャロナー警部はすべての容疑者があたかもグレイを失念したかのようにグレイについて何も語っていない事実に着目する。またチャロナーはこんなこともつぶやいている。
「なにか説明の仕方があるはずなんだ」と彼は声に出して言った。「単純ななにか、あたりまえすぎて見逃しているなにか、なにか、誰か……」
フロイトも失念や否認や盲点化について興味を持ち、多種多様な例をあつめて考察していることは誰でも知っているだろう。さらにチャロナー警部が事件の真相に気づくのは「グロスの犯罪心理学」という本のある一節を読んだからである。そしてわたしの欲望は他者の欲望であるという精神分析の基本的テーゼに気が付く。詳しく話すとネタバレになるのでこれ以上は言わないが、本書を読んでいただければわたしがなにを言っているのか、おわかりになるはずだ。フロイトがドイルの探偵小説に深甚な興味を抱いたという事実が示唆するように、ミステリと精神分析の関係は非常に深いのである。
この作品の中にはヴィクトリア朝のころメロドラマで使い古された仕掛けがたくさん見つかる。世界中の富豪や権力者が寄り集まって作った秘密犯罪組織、不義の子供、脅迫状などなどだ。人物造形もディケンズのそれのように一定の特徴を強調した、型にはまったものだ。こうしたメロドラマの世界から一歩外に出て、それを外形的にながめる視線が確立したとき、二十世紀的な小説や本格推理小説が成立したのだとわたしは考えている。非常に単純な構造の作品なので、そうした事情が見て取りやすい。
エドワード・アタイヤ「残酷な火」
エドワード・アタイヤ(1903-1964)はレバノンに生まれ、オクスフォード大学に学び、スコットランド人の女性と結婚した作家である。自伝や「アラブ人」という評論が有名だが、ミステリも何冊か書いている。ウィキペディアの書誌を見る限り「残酷な火」(61)は彼が書いた最後のミステリ...

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