Wednesday, June 24, 2020

ミステリ劇「遺体」(1951)



最近はミステリ劇を探し出して読んでいる。本作はハワード・リンゼイとラッセル・クラウスの合作ミステリ劇。この二人は Life with Father とか State of the Union といった劇作品で有名なので知っている人もいるだろう。


「遺体」(Remains to Be Seen)はそれほど面白い劇ではない。ミステリめいた主筋にギャグやらロマンスをからめ、にぎやかな舞台にはなっているものの、焦点のはっきりしない仕上がりになってしまっている。とある金持ちがニューヨークの自宅で死体となって発見される。警察と医者の調べで、薬の服用量を間違え、事故死したものと判断された。現場で死体を調べた後、彼らは葬儀屋に死体の運び出しを頼む。ところがやってきた葬儀屋は死体の横たわる部屋に入ったとたん、血相を変えて飛び出してくる。なんと死体の胸にナイフが突き刺さっていたのだ。警察や医者が調べたときは、ナイフなど刺さっていなかった。誰かがいつの間にか死体にナイフを突き刺したのである。いったい誰が、なんのために?

このあとは相続人で歌手の美しい娘や、素人ドラマーでもあるアパートの管理人やらが登場し、人が死んだというのにずいぶん騒々しい場面を展開することになる。

この作品を読みながら、オヤっと思ったことがひとつある。死んだ金持ちの召使はハヤカワという日本人なのだが、刑事が彼に向かって「さあ、来い、ミスタ・モト」と言うのである。

そういえば、この劇が書かれた1950年ごろは、ジョン・P・マーカンドによってミスタ・モトのシリーズが書かれ、映画化もされていた時期だった。神秘的な日本人スパイ、ミスタ・モトの物語の特徴は、ミスタ・モトが主人公ではなく、副主人公のように活躍することである。事件に巻き込まれたアメリカ人の冒険、これが物語の前面に押し出され、その彼をアシストするようにミスタ・モトが静かにその手腕を振るう。もう一つの特徴は事件に巻き込まれたアメリカ人が事件を経て成長する点である。たとえばビジネスの世界にうといぼんぼんが、事件を経てタフなビジネスマンに変身するというように。

そう考えたとき、もしかしたら「遺体」もそんなマーカンドのシリーズの真似をしようとしたのかな、とふと思った。というのはアパートの管理人は登場したときは奥手で、うぶな、もしかしたらマザコンかと思われるような男なのだが、事件を経て劇の最後では、美しい相続人(もっとも彼女は遺産をすべて慈善目的に使ってしまおうとする)と結婚し、彼女と一緒にどさ回りの音楽バンドに加わることを決意するからである。本作はあまり出来がいいとは思えないが、アメリカ文学と「成熟」の問題にわたしの目を向けさせてくれた。

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