しかしこの小説は単に主人公の女性遍歴を追っているだけではない。冒頭にある種の謎がおかれていて、読者はその謎の解明を期待しながら主人公の破壊的な愛の物語を読むことになる。
ホートンの小説はどれもこれも似通っている。主人公の生い立ちやら、行動パターンもそっくりだ。それはホートンがきわめて狭い範囲内で小説を書いていたということを意味するとわたしは思っていた。しかしこの小説を読みながら、ちがう解釈も可能ではないかと気がついた。
ホートンはよく、ある種の人間はいくつもの可能性を持っている、という。その人は芸術家としても成功するし、実業家としても成功しうる。一流の俳優にもなれれば、碩学にもなれる。単に才能豊かであるという言い方では片付かない、まったき他者になる可能性、それがある種の人にはあるというのだ。このモチーフがいちばん見事に表現されているのが、彼の代表作である「わが名はジョナサン・スクリブナー」だろう。
彼はAにもなれたし、Aとはまるきり正反対のBにも、Bとはまるで方向性のちがうCにもなれた。ホートンの小説は一作一作がその異なる可能性を描いているのではないだろうか。だとすれば、彼の小説世界は狭いけれども、彼の文学的キャリアは一貫した、ある思考の線に貫かれている、と言えるだろう。