テンプルディーン・プレイスは英国コッツウォルド・ヒルズにある貴族的な大邸宅だ。そこにはヴィクトリア朝的な伝統がいまだに保持され、ヴァンステッド一族と使用人たちが幸せに暮らしている。そこの主人であるチャールズ・ヴァンステッドが重篤な病にかかり、手術を受けたため、オーストラリアから相続人である彼の息子ジェラルドが一家を伴って見舞いにやってくる。
このジェラルド一家はジェラルド本人も妻のメリエルも息子のアランもじつにいやな性格をしており、テンプルディーンのしきたりになじむこともできなければ、使用人たちからも嫌われていた。さらに問題なのは、もしもチャールズが死に、ジェラルドが邸宅を含む財産を相続したなら、彼はすべてを売り払って、そこに住むジェラルドの妹ジュディスも叔父もチャールズの秘書も使用人も、みんな邸宅から追い出されてしまうことだ。
するとどうだろう、ある日ジェラルドとその妻メリエルは交通事故で死んでしまったのである。ジェラルドは無謀運転を繰り返していたから、まわりの人々はこの事故を起こるべくして起こった事故だと考えた。
ところが一人残された息子アランも毒を含んだ苺を食べて死んでしまうのだ。彼の両親が交通事故で死んだときも、もしかするとこれは殺人かもしれないと考えた地元の警察は、アランの死によってその疑いをさらに強くする。そしてスコットランドヤードの刑事マクドナルドが事件の解明にかけつける。
この物語は二つの点で興味深かった。一つはテンプルディーン・プレイスの古式ゆかしい貴族的雰囲気である。ほかの古い邸宅は、みな博物館のような雰囲気を漂わせているが、テンプルディーンだけはいまもヴィクトリア朝が時間を越えてそのまま残っているような感じなのだ。これに対しては作中人物(エリザベスとかシスター・テンプル)も驚いている。たんに見た目が過去とそっくりというのではない。家も庭も農地も見事に管理され、まさにヴィクトリア朝の理想的貴族的生活を営んでいるのだ。第二次世界大戦後の世界にこんな場所が存在しうるのだろうか。(ちなみにジェラルドとメリエルは、日本軍に占領されたマレーで過酷な収容所生活を送った)
あるはずのないものが存在しているという、不可解な存在の様式は、屋敷の主チャールズについても言える。彼は十九世紀に巨大な富をつくった実業家である。しかし今は老衰し、死を待つばかりだ。ほんとうは彼自身、周囲に迷惑を掛けずにさっさと死んでしまいたいと思っている。しかし周囲の人々は、高齢の彼に手術を受けさせ、たった一年か二年だけだが、寿命を延ばそうとする。もちろん邸がジェラルドに渡るのを少しでも先延ばしするためだ。チャールズは事実上死んでいるのだが、周囲の人々が彼を死なせようとしないのである。生きているのでもなければ、死んでいるのでもないこの邸の主の状態は、ヴィクトリア朝的理想がもはやありえないのに、しかし無理やりあらしめられている状況とパラレルな関係にある。
本来存在していないはずのものが存在しているという歪み、捻れが本書の事件を産む背景を構成している。存在し得ないものが存在しようとすればそこに無理が生じる。その無理が犯罪という形を取るのである。
もう一つ面白いのは探偵の立ち位置である。事件が解決したあと、邸の農場を切り盛りしているバートンがマクドナルド警部とこんなやりとりをする。
「……そのころには偶然の事故という説が破綻したことにみんなが気づいた。わたしは彼らをあまり丁重には扱わなかったからね」
「そこがあなたと地元警察との大きな違いだ」とバートンが言った。「ヤングやブラウン(いずれも地元警察の刑事)は彼らがその中で育てられた信念を越え出ることができない。ヴァンステッドみたいな一族には慎重に接しなければならないという考えから脱却できない。しかもジュディスは天使だというみんなの意見を鵜呑みにしていた」
「だからこそわたしみたいなアウトサイダーがしばしば有用になるのさ」とマクドナルドは同意した。「偏見や思い込みにとらわれないから……」
コッツウォルド・ヒルズの事件を解決するには、そこの共同体を支配するある種の捻れから自由でなければならない。捻れに囚われている者には真相が見えない。マクドナルド警部がゆがんだ空間の内部において論理を貫き通し、内部の人間の盲点や思考の捻れを指摘する場面は非常に迫力がある。ロラックの小説においてはマクドナルド警部の外部性がよく強調されるけれど、彼女は推理小説の本質的な問題点についてよく考えていた作家なのだと思う。