Saturday, February 6, 2021

カール・ヴァン・ヴェクテン「スパイダー・ボーイ」(1928)

 アンブローズ・ビーコンは無欲で素朴で内向的な劇作家である。それなりの評価とそれなりの収入を得ている作家で、そのお金で静かに、人知れず暮らしていくことを望んでいた。しかし彼の書いたある作品がブロードウエイで大ヒットし、たちまち彼は時の人となる。インタビューを受け、新聞の取材を受け、写真を撮られ、レビューを書かれ……。そんな大騒動から逃げ出すように彼はニューメキシコへこっそり旅に出る。そこにいる友達を訪ねようと思って。

ところが列車の中で彼は偶然今をときめくハリウッド女優インペリア・スターリング(とんでもない名前である)にばたりと出会い、彼女から「私が主演する映画のシナリオを書け」と言われる。そしてニューメキシコではなく、カリフォルニアに連れて行かれてしまうのだ。そこで彼は映画産業の狂態ぶりを目の当たりにする。それだけではない。映画関係者は時の人であるビーコンに脚本を書かせるため、彼を監禁しようとするのである。

これには羊のようにおとなしいビーコンもかっとなり、即座に窓から脱出、予定通りニューメキシコの友達の家へ行く。しかし……なんということだろう、インぺリア・スターリングは彼を警察に逮捕させ、ハリウッドに引き戻そうとするのである。

ハリウッドの異常さを描いた作品はたくさんある。私が訳した「黒に賭ければ赤が」もそうだし、ナサニエル・ウエストの「イナゴの日」やゴア・ヴィダルの「マイラ・ブレッケンリッジ」などいずれも名作だ。ヴェクテンの本作も快作といっていいだろう。十分に面白いし、文章もいい。上等な喜劇になっている。

主人公のビーコンが田舎者みたいに不器用で、ノーが言えず、周囲に振り回される人間と設定されているところがこの作品のミソである。そのせいで映画業界の異常さがいっそう際立つという仕掛けになっている。

しかし異常というものは正常な状態を反省するいい機会を与えてくれる。コロナ禍にあるわれわれは、それ以前の「正常と見なされていた事態」がいかに珍妙奇怪なものであったかを見せつけられている。あるいはもっと学問的な例を出せば、フロイトが精神異常を調べたのは、まさにそれによって「正常」なるものの本質が解き明かされると考えたからである。本書にもそうした瞬間がいくつかある。たとえばこんな一節。「きみは格(class)と呼ばれる商品を知っているか。……表面はどんなにシニカルな人間でも格ってものにたいしては弱いものだ。人は格を見てもそれとは理解しない。だから教えてやらなければならないんだ。しかしいったん人間がそれを信じると、そいつの前に跪いて崇拝するようになるんだな」これはハリウッド人士の狂気じみた振る舞いを説明している言葉なのだが、そっくり我々の普段の生活にもあてはまる。格というのはオーラといってもいい。ある商品を所持することは、あなたの格をあげることなのだ、とコマーシャルは叫び、プラダのバッグの前にみんなが拝跪する。二十年代のハリウッドはその狂気の中に資本主義の未来の姿(われわれの姿)を示していたのである。


独逸語大講座(20)

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