本編の主人公はナイジェル・ストレンジウエイズではなく妻のジョージアのほうである。彼らが庭仕事をしていたとき、写真を入れて首に掛けるロケットを見つける。それがきっかけとなって、彼らはイギリスを独裁国家に変えようとする政治的陰謀の存在に気づくのである。そしてジョージアは夫の伯父であり時の政府の要人でもあるジョン・ストレンジウエイズに促されて、この秘密組織に潜入することになった。ジョージアは世界を股にかける冒険家だったが、今回は内なる(つまり国内に於ける)冒険へと出掛けるわけだ。
そういうわけでこの作品はミステリというよりはスリラーとか冒険小説、あるいはスパイ小説に近い。もっともル・カレみたいな筋の入り組んだものではなく、たんたんと読み進められる平易さを持っている。
この作品はいくつかの点で興味を惹く。まずは独裁主義への不安。この作品が出た1939年といえばヒトラー率いるドイツがポーランドに侵攻した年である。イギリスにはその七年前の1932年にファシスト党が成立していた。独裁主義はこの当時の時局的な話題だったし、文学や映画によってよく取り上げられた主題だったのだが、ニコラス・ブレイクもこの手の作品を書いていたとは知らなかった。
ニコラス・ブレイクの描く独裁者はその性格がじつによく伝わってくる。このあたりの書き方はさすが桂冠詩人と感心せざるを得ない。ゴルフコースや地球儀の謎、飛行機をクリケット場に着陸させるエピソード、いずれも彼の支配欲、自己顕示欲が巧みに表現されている。(ついでにいえば、独裁者の視線とは「俯瞰する視線」なのだということがこれらのエピソードを通じてわかる)
次に女性の活躍が目を惹く。ジョージアは冒険家だけあって胆力があり、しかも夫に負けないくらい知的な鋭さを持っている。自分の生き方にこだわりを持ち、そのためなら離婚も考える、独立心にとんだ女性である。冒険小説で女性が活躍するというのはこの時期ではまだ珍しいのではないだろうか。探偵ならヴィクトリア朝時代から作品があるけれど。
最後に会話がなかなか気が利いている。秘密組織に潜入するジョージアと独裁者を目指す組織の首領キャンテロウ卿の会話を引いてみる。
「どうしてわたしをそんな眼で見るの?」ジョージアは振り返って彼を見つめた。
「わたしはどんなふうにあなたを見ているのですか」
「先生が黒板に書きつけた新しい公式を見るみたいに見ている」
「たぶんあなたは新しい公式なんでしょう。わたしにはあなたを位置づけることができない」
「いつも人を位置づけているの?」
「危険かもしれない人々の場合はね」
俯瞰する視線とは位置づけようとする視線だが、そのような視線がいつも魅了され、挫折させられるポイントがある。それが位置づけのできないシニフィアン(新しい公式)なのだ。引用した会話はちょっと読むと映画的な粋な会話のように読めるが、じつは作品全体を通じて示される主題と関係していて、それゆえ浮いた印象がないのである。