スラヴォイ・ジジェクはよくメビウスの帯という比喩を用いる。一方の側面にそって進み続けると、いつのまにか反対の側にまわってしまうという、アレである。もしもこの帯の平面上を人が移動したなら、左にある心臓は反対側では右になる。それゆえこの曲面は向き付けが不可能であるとされる。
連続的であるにもかかわらず、向き付けの異なるなにかへと変貌するこの現象を、ジジェクは哲学や文学やさまざまな政治的事象のなかに見出す。それはきわめて刺激的な考察である。
わたしがこの比喩の重要性に気づいたのは今日出海の「山中放浪」を読んだときだった。これは第二次世界大戦中、マニラの山中で地獄のような逃避行をした記録なのだが、そのなかにこんなことが書かれていたのだ。米軍を逃れるために今と軍人たちはジープで延々山路を移動する。米軍が造った山道はまことに整備が行き届いていて、じつに快適に車を飛ばすことができた。その車中で今はつい眠りこんでしまうのだが、ふと目が醒めると真夜中で、道の脇にはそれこそどれだけ深いのかもわからぬおそろしい谷が口を開けている。その場面を読んだとき、これこそメビウスの帯だと思った。米軍の造った山道を走り出したとき、今は有用性とか利便性とか合理性といった、いわゆる「象徴界」に存在していた。ところが山路をその果てまで突き進むと、そこには崇高なるものの次元が切り開かれていた。崇高なるものは「象徴界」に回収され得ないものとしてその限界を刻むものだ。それに気づいて「山中放浪」を読むと、随所にこの反転現象が見つけられる。最大の反転現象は、まさに日本とマニラのあいだに存在する。日本では新聞記者たちが報国報道に余念がない。しかし今は彼らが現実をまるで知らないことにいらだつ。記者たちは自分たちだって危険を冒して戦地へ行っているというのだが、今はそれではまだ行き足りないのだ、もっと先へ行けと言う。記者たちは今を非国民よばわりし、結局彼らは酒の席で大げんかを演じ、今は血まみれになって宿に戻るのである。わたしは今の、もっと先へ行けという言葉に注目した。つまり日本における現実が反転する地点まで先へ進めという意味だと考えたのである。今は反転する地点まで行ってしまった。記者たちはまだそこまで行っていない。そして向き付けの不可能な地点まで行ってしまったからこそ、今と記者たちは理解し合えないのである。このギャップはどれほど言葉を積み重ねようとけっして埋めることができない、そういうギャップである。だから彼らはいくら言葉を重ねても理解し合えず、最後には暴力を用いざるをえないのだろう。
考えて見れば今がさまよった山路はメビウスの帯にそっくりではないか。わたしは文学における空間論は三次元的であってはならないと考えた。
ルネ・フュレップ=ミラー作「闇の深みへ」を訳したのもこのメビウス現象が如実に描かれているからである。この作品には山中を行軍する場面がふたつあるが、その両方において反転現象が起きている。物語の冒頭にあらわれる行軍の最中、主人公は自分たちが隊列をなしてたどっているこの道は目的地へ行く道ではないのではないかと疑問を抱く。そして彼は士官候補生に地図を見せられ、たしかに目的地へ通じている道だと一時的には納得する。しかし彼らは結局、雨と風が吹き荒れるおそるべき場所へ入り込んでしまう。今の「山中放浪」とおなじように崇高の次元に突き出てしまうのだ。地図というのは空間的位置にある秩序を与えたもの、つまりすぐれて象徴的なものだ。しかしメビウスの帯である山路は、象徴界を突っ切り、その限界地点まで人をいざなうのである。
二つ目の山中行軍は第二章にあらわれる。そこで兵士たちは歩きながら目的地にいる有名な娼館の女の話をしている。ここに見られるのは通常の欲望である。ところが突然主人公はべつの戦場へ向かわされることになる。そこでの使命は、敵にわざと攻撃をさせ、しかしけっして陣地をあけわたしてはならないという、とんでもないものだった。みずからを幾度も、反復的に、死の危険にさらすという、まさに死の欲動の領域へと主人公は突き進むのだ。欲望の領域から、死の欲動の領域へ。これくらいあざやかに反転現象を描いた作品はなかなかないだろうと思った。
この二作の読解を通じて山路がメビウスの帯の比喩となり得ることはよくわかった。ところで山路はよく「羊腸たる」という形容をともなう。そう、じつは腸もその形状がメビウスの帯に似ている。つまりわれわれはわれわれの内部に反転現象を抱え込んでいるのである。わたしはいま、そのことを考えている。