トランプ大統領が選挙の不正を演説で訴えたとき、それをライブで流していた放送局のキャスターが内容に偽りがあるとして即座に放送をやめさせた。ああいうところを見ると、アメリカは、まだまだデモクラシーを回復する力を持っていると思う。嘘を嘘として切り捨てられる力、それが啓蒙の力である。
「人間を殺してはいけないと言うが、その根拠はなにか? われわれはその理由をもう一度考え直すべきではないか」などという人々がいる。そんな議論に加わってはいけない。馬鹿なことを言うなとはなっから否定すればいいのである。それができないようなら、そのような人々には啓蒙の力がまだ及んでいないのである。
「女はレイプされて嫌だ嫌だと言いながらひそかに喜んでいるんだ」などとある種の男は考える。だからレイプを犯罪とみなすのはおかしいなどと一昔前はよく言われたものだ。こんな議論につきあってはいけない。「なにを言っているのか」と一喝して相手を黙らせるのが啓蒙的な態度である。そんな議論を年がら年じゅうしなくちゃならない社会になど誰が住みたいと思うものか。
日本のジャーナリズムが駄目なのはこうした啓蒙的な態度が取れない点である。意見は公平性に欠けることがないよう両論を併記しろと政府に言われて、唯々諾々とそれに従っている。彼らは人を殺してもよいという理由ものせるし、レイプしてもよいという理由も、その反対論とおなじ重要性を持つものとしてのせている。これでは駄目なのである。
アメリカのキャスターのように噓は噓と切り捨てられなければならない。桜を見る会の問題がいまだに決着しないのも、じつは啓蒙の力が日本にはないからである。