Thursday, July 15, 2021

エリザベス・マイアース「ミセス・クリストファー」(1946)

Elizabeth Myers (1912 - 1947) は才能豊かな作家として注目されたが結核のために早世した女性である。たまたま Internet Archive に本書があったので読んでみたが、一ページ目から度肝を抜かれた。

標題にもなっているミセス・クリストファーは社会的地位もある六十五歳のご婦人である。息子さんは警察の要職にある。しかし姪が放埒な生活を送り、麻薬などもやっていたため、とある悪党に強請をかけられることになった。彼女は姪に代わって強請の金を支払ってやっていた。

この悪党はミセス・クリストファーを含め四人の金蔓を持っていた。その三人を彼は自分の家に呼びつけ、さんざん嫌みを言う。金蔓の三人は弱みを握られているから反論もできない。物語はいきなりこの場面から始まるのだ。そして始まった途端、業を煮やしたミセス・クリストファーが拳銃を取り出し、一発で恐喝者を殺してしまう。最初の一ページにこんなことが書いてあるのだから、さすがにわたしもびっくりしてしまった。

その後、ミセス・クリストファーと三人の被害者は死体を残したまま、誰もいない恐喝者の家を出て行こうとする。全員がミセス・クリストファーに感謝し、警察が事件をかぎつけて、彼らのもとに来ても彼女のことは黙っているつもりだった。しかしミセス・クリストファーは誤ってあなた方が犯人扱いされてはいけないと、自分の名前を住所を明かして、去って行く。

このあとが少々奇妙なことになる。ミセス・クリストファーはそのまままっすぐ息子の家へ向かう。そして警察に勤める彼に、自分は殺人犯であると自白するのだ。そして息子は母親のキリスト教信者としての考え方を聞くうちに、おかしな誘惑にかられる。母親は残りの被害者三人は彼女が犯人であるとは絶対に云わないと考えている。しかしそうだろうか。そこでこう提案するのだ。お母さんはしばらくじっとしていて下さい。事件が発覚したら犯人の情報提供者には五百ポンドを出すという広告を出します。それを見て本当に三人の被害者がお母さんを裏切らないか、試してみましょう、と。

ミセス・クリストファーに「助けられた」ほかの三人の人々は、高額の賞金がもらえることを知り、どう反応するか。

センセーショナルな書き出しだが、じつは本書は T. F. Powys の作品のようなアレゴリカルな作品、あるいは Charles William の作品のような形而上学的作品だと言える。端的に言えば、ミセス・クリストファー(<b>Christ</b>opher) を裏切るか、裏切らないかという問題は、キリストを裏切るかどうかという問題、キリストを裏切るとはどういうことなのかという問題につながる。キリストは人類の罪を背負って十字架についたわけだが、ミセス・クリストファーも強請られている他の人々の代わりに罪を背負い、彼らを解放してやる。そして解放された人類が恩を感じるのではなく、キリストを裏切るように、強請の被害者だった人々も彼らを解放してくれた恩人を裏切るのである。当然ながら物語のあちらこちらに聖書への言及が見られるし、冒頭ミセス・クリストファーに銃殺される男の名前はサイン(Sine)で、これは Sin (罪)という語を内に含んでいる。いろいろな仕掛けがあって知的ゲームとしては面白い。また次のようなパラドクスを説いた一節は非常にラカン的である。

Life was a very queer game. Who'd have thought that to go free meant that you had to live under discipline! Who'd have thought that doing exactly as one liked was not freedom but captivity to a horror--the horror of realizing that without taboo everything was of equal value and, consequently, no value, and the will so far from being an instrument of power became a mere will-o'-the wisp; that real freedom meant doing what somebody else liked--what God liked--God whom he denied but in whom he could not help believing.

この点はわたしもまったく同じことを考えている。

さらに罪(guilt)の観念と金(経済)の関係が描かれているが、これは前から気になっていたテーマである。キリストが人類の代わりに罪を背負い、われわれを罪から解放したとき、じつは我々はキリストに負債を負うことになる。この自由・解放が負債・重荷によって可能になるという構造は貨幣経済をも支配しているのではないのか。貨幣を得ることは負債を背負い込むことではないのか。この問題については、時間をおいて本作を読み直し、もう一度考えたいと思う。

ただ、神学的な議論があまりにも生な形で提示されていて、それが興をそいでいる感じはぬぐえない。T. F. Powys や Charles William はそこをうまく物語に落とし込んでいるのだが、その巧みさが若きマイアースにはまだなかったのだろう。しかし可能性を秘めた作家であることはよくわかる。もっと長生きしてたくさんの作品を残すべき人だったと思う。

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