Sunday, July 18, 2021

ケネス・バーク

ケネス・バークの議論は、「人間とは象徴・記号を使う存在だ」というところから始まる。そして象徴や記号の特質が人間的思考を支配するさまを鋭く指摘する。たとえば象徴や記号は個々別々のものを一般化、抽象化する。河原に転がる石は一つ一つが独自の相貌を持っているけれども、われわれがそれを「石」という語で指し示すとき、個々別々の相貌は消去され、石という観念があらわれる。これが一般化、抽象化だ。バークは国家とか人種をめぐって馬鹿げた戦争が起きているのは、人間がこうした抽象と現実を取り違えているからだと指摘する。民族とか国家とか人種とかいった概念はポストモダンの時期に盛んに脱構築されたが、バークはそれに先んじて、象徴・記号の観点からその作業をやっていたのだと言える。

バークは否定がいかに発生したかについて興味深い論文を残している。自然界には否定は存在しない。人間は「濡れていない」というけれど、自然界においてその状態はたんに「乾いている」だけである。人間はいかにして否定を獲得したのか。その発生を論理のレベルで考察したのである。それは肯定の内部から次第に否定が発生する過程をたどった興味深い論考で、わたしは大学生の時に読んで感銘を受けた。つまり肯定と否定は対立するのではなく、連続しているのだ。肯定の論理をつきつめると、いつの間にか否定に変化しているのである。

明暗、善悪、男女、上下、内外といった二項対立は二次元的、あるいは三次元的なイメージでとらえられているけれども、バークが考察しているような状態、つまり対立と見えるものが連続しているという事態は三次元的には考えられない。内部が同時に外部でもあるという事態はクラインの壺のように四次元的なものでなければならないからだ。

おなじことをもっと精緻に論理化したのがラカンである。ラカンも言語から出発して、その特性が人間をどう形づくっているかを検証していった。そしてその働き方を説明するのにメビウスの輪、クロスキャップ、クラインの壺といったトポロジカルなイメージを用いるようになった。

バークはそこまで自分の思考をつきつめているとは思えないけれど(いや、バークをすべて読んだわけではないから断言は出来ない)、しかしラカンとおなじ方向に進んでいたことはまちがいない。バークの研究はあまり盛んではないようだが、わたしは興味をもって読んでいる。

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