Monday, August 30, 2021

欲望の対象

われわれは複雑な確定記述の束からできている。たとえばAさんはXという会社の社員であり、Yという女性の良人であり、Zという子供の父親である。さらにビデオゲームの愛好者であり、月に一度はプロレス会場へ足を運び、その帰りにあるお気に入りの寿司屋で寿司を食う。髪は天然パーマで、顎が四角く、マラソンのアマチュア選手である。マイナンバーカードの番号は***であり、銀行通帳は二つあり、現在住宅ローンの返済の途中である。われわれはそういったさまざまな対人関係、社会契約関係、特徴の束として存在している。

ところで、もしもこの確定記述の束を一つ一つ剥いでいったら、最後にわれわれはどうなるだろう。われわれはこの世から消えてしまうわけではない。しかし確定記述をすべて失った「もの」は、いかなる確定記述も不可能なものであり、それは言語的に名指すことのできないものとなるだろう。

荒っぽく言えば、確定記述の束として存在しているとき、われわれはラカンのいう象徴界に位置しており、いかなる名指しも不可能なものとなるとき、われわれは現実界に位置している。そして現実界から象徴界に移行すること、つまり名指すことのできない「もの」という状態を否定され、名指しうる存在として社会の一部と化することをラカンは「去勢」と呼んだ。

この象徴界と現実界は截然と区別され、相互の関係がまるでないというわけではない。象徴界にあらわれる「欲望の対象」はまさに去勢されていない現実界のかけらなのである。もちろん対象は確定記述の束としてある。しかしそれが持つ魅力は確定記述のどこにも存在していない。魅力は現実界に由来するからである。このような魅力をスラヴォイ・ジジェクは「崇高なもの」と呼んだ。

女の子が自分を好いている男に向かって「わたしのどこが好きなの」と尋ねることがある。この質問はトリッキーであり、どう答えようが女の子を満足させることが出来ない。「髪の毛のつやがすてきだ」と言えば、「髪の毛のつやがすてきな人は自分以外にもいる。そういう人なら誰でもいいのか」と反論されるだろう。どのような確定記述を答として提出しようと、そのような確定記述に合致する人はほかにもいると言って、女は男をからかい続けることができる。男が女見出している魅力は確定記述の束のなかにはない。それは現実界に由来するのだ。ラカンはそれを表現するために「あなたの中にあってあなた以上のもの」という言い廻しを造った。

確定記述の束にすぎないものがなぜ突然、現実界に由来する崇高性を帯びるのか。それは対象を見る者の視線にある種の歪みが生じるから、あるいは対象と見る者がある種の配置に収まると、対象の見え方に歪みが生じ、その歪みが魅力になるのである。このことは機会を改めてまた書こうと思う。

独逸語大講座(20)

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