Wednesday, October 6, 2021

ヘルミニア・ツア・ミューレン「労働者の子供たちのための童話集」(1925)

タイトルに惹かれて読んでみた。作者はドイツ人で、ドイツ語で書かれた作品なのだが、それをアイダ・デイルズという人が英語に翻訳したものである。原作は残念ながら手に入らなかった。

非常に短いお話が四編収められている。最初の作品は「バラの茂み」。お金持ちの家に咲くバラの茂みが、人の世の不公平に気づく。美しいバラの花を見て、貧しい家の子供たちが歓声をあげると、優しいバラの茂みは風にむかって「わたしの花を一つとってあの子供たちに渡して」と頼むのだが、バラの所有者である金持ちは、「うちのバラを勝手に取るな」と子供たちを追い払う。バラの茂みは怒り、それから庭師が水をやっても根でそれを吸収することをやめてしまうのだ。ついに枯れてしまったバラの茂みは労働者の家に引き取られ、そこで再び水を吸い、美しい花を咲かせる。

 


二番目に収められているのが「雀」。雀はツバメなどの特権階級に属する鳥の巣を作る労働者の息子である。彼は己の置かれた環境に嫌気がさし、一年中冬がない常夏の国へ向かおうとする。もちろん雀はそんなに距離が飛べないから、人間を真似て列車や船を使ってエジプトへ渡るのだ。彼はその道中、人間の貧富の状況をつぶさに見ることになる。さらにエジプトについてからスフィンクスに今も昔も人間の一部が奴隷のように使われている事実を知らされる。そこに北から渡って来たツバメがやってくる。聞くと故郷では冬がいつもより早く来たと言う。雀は故郷の人々を常夏の国へ誘導しようと帰郷を決意する。しかしながら彼は途中で大嵐にあい、命を失ってしまうのだ。では苦しむ仲間を救えなかった雀は無駄に命をなくしたのか。じつは雀の話を聞いてそれを胸にとどめた一人の少年は、大きくなって労働者のために立ち上がる指導者となったのだった。しかし、その話はここでは語られるべきではない、というように終わっている。

 第三話は捨てられた犬と奴隷少年の友情を描いている。アメリカ南部の奴隷少年が、捨てられそうになっていた犬をもらい受ける。その後少年の母、そして父が相次いで売られ、少年はひとりぼっちになる。さらに彼の主人である白人はまだ小さい彼にも重労働をさせるようになる。そのとき、犬が人語を発して少年に「逃げろ」と言うのだ。少年が「おまえはしゃべるのか?」と叫ぶと犬はこう言う。「金持ちが獣のように貧しい者を取り扱うとき、われわれ動物は貧しい者を助けなければならない。人間がひどく不幸になり、見捨てられてしまったとき、人間はわれわれの言葉を理解し、われわれがその人の幸せを願っていることを知るのだ」というわけで少年と犬は逃避行を開始する。そして犬は命を賭して少年を助けるのである。

第四話は貧民院のポール少年の話。貧民院は年寄りが入るところなのに、ポールは身寄りがないせいだろう、まだ少年なのに貧民院に入れられていた。彼はわからないことがあると、いつも「なぜ」とまわりに問いかけ、うとまれていた。

彼はなぜ自分がいつもお腹が減っていて、食べ物を与えられないのか、それを疑問に思っていた。貧民院の院長も、農家の家畜たちも、その問いには答えてくれない。

問いの答を求めてさまよううちに、彼は木の精霊から、世の中に格差があることを知らされる。格差があることを貧しい人々は知らない。豊かな人々は格差があることを隠そうとする。この不公平な世の中がいつなくなるかは人間次第だ。お話の最後に木の聖霊は言う。「おまえの疑問を忘れるな。それを貧しい人々の前で語れ。おまえにはきっと仲間が出来るだろう。そしていつか世の中は変わるかも知れない」

いずれの話も面白く読めた。プロレタリア文学など古いと言う人があるかもしれないが、社会的現実は、「どのようなものであれ」、亀裂を含んでいる。全き社会、完全な調和的世界は存在しない。プロレタリア文学はその亀裂を特殊な角度から描こうとしたものであり、今の時代と比較しながら読んでも、ある種の真実をそこに認めることができる。プロレタリア文学者は私がいう「亀裂」を階級闘争と称した。階級闘争はある。常にある。かりに階級闘争という言葉がピンと来ない人がいるとすれば、その人はなぜピンと来ないのか、なにが階級闘争という事実をぼやけさせているのか、それをポール少年のように自らに問うべきである。

独逸語大講座(20)

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