スラヴォイ・ジジェクはこう言う。
「地球の最後とか、隕石と地球の衝突を描いたカタストロフィー・ムービーは、きまってエディプス的な物語、あるいは愛する二人の誕生の物語となっている」
たとえば「ハルマゲドン」。誰もがあれはサイエンス・フィクションであると思って観ているが、ジジェクはサイド・ストーリーに着目する。すなわち主人公ハリーの娘の恋愛である。ハリーの娘は彼の部下であるフロストと交際しているのだが、それを知ったハリーはフロストに銃を向けるのだ。このエピソードは映画全体の中における小さなディテールを構成するにすぎないように見える。ところがジジェクは、地球に向かって飛んでくる小惑星は、その父親の怒りが具象化したものにすぎないと考える。つまり小さなディテールこそこの映画の主眼であって、宇宙的規模のドラマはそれの、いわば比喩的表現になるのである。父親ハリーは最後に核爆弾を爆発させて小惑星の軌道を変え、みずからの命を絶つわけだが、そのとき彼は娘と恋人のフロストの未来を祝福している。つまり和解をするわけだ。「ハルマゲドン」は父親の怒りから和解へ至る物語だ、というのがジジェクの読み方である。
「ディープ・インパクト」も同様に、父親に対する娘の怒りがカタストロフィックな情況に具象化されており、それが和解という形で終わる。
ジジェクの読解の面白さは、脇筋と本筋の重要性を反転させるところにある。彼はとある講演(https://www.youtube.com/watch?v=24FUDelJ4Y0)の中でこう言っている。(1:01:40あたり)
Something that appears just an accidental side story is really what the movie libidinally is about.
本筋の物語は、脇筋で展開する人間同士の心理を形象化したものにすぎない、ということだ。
わたしはジジェクの読解には強烈な衝撃を受けた。(彼の読解のわかりやすい部分を紹介したが、くわしくは彼の出世作「崇高なるイデオロギーの対象」を読んでほしい。直接読解の方法を説いているわけではないが、その手掛かりは全編にばらまかれている)わたしは「イデオロギーの崇高なる対象」を読んだ直後にスチュアート・ゴードン監督の「ドールズ」という映画を観て、ジジェク的な読解が可能であることに気づいた。(ちょっとだけ自慢すると、それはジジェクの議論よりも精密で、反転がいかに可能になるのか、その構造をあきらかにもしている)それ以来わたしはこの読解法、そしてテキストの構造についてずっと考え続けている。