東欧のどこかの国にこんな笑い話があるそうだ。神様が一人の農夫にこうもちかけた。「お前の望みを一つかなえてやる。ただし、お前の隣人は、おまえが得たものの二倍のものを手にすることになるけれどな」つまり農夫が林檎一個を望んだとすれば、隣の農夫は林檎二個を手に入れるというわけだ。そこで話しかけられた農夫は言った。「それじゃ、わしの眼を一つなくしてください」
人間と云うのは根本的に歪みをひめた存在だけれど、それがこんな笑い話にもよくあらわれている。人間はどういうわけか、自分より「少し下の人間」を激しく憎悪し、あるいはそのような対象を作り出そうとする。そして「下の人間」が自分たちより得することを許そうとしない。得することを許せば、自分たちにもなんらかの得が生じるにもかかわらず。
自分が損をしてもいい、目を失ってもいい、と考えるのは、その損、目の喪失のうちに快楽が存在するからである。人間は得をしようと合理的に動くものだ、などと考えていると、この振る舞いは理解できない。通常は得をすることに快楽を覚えるが、その逆に損をすることに快楽を覚える場合もある。ときには自分の死を招くような損にすら快楽を覚えるのだ。
ナチスドイツは、「今の苦しみなどとは比べものにならない苦しみになるが戦争をやるぞ」と言い、民衆はそれを歓呼しながら受け入れた。あれはこのネガティブな快楽に一国がどっぷりとひたってしまった例である。
この狂気は、しかしながら、人間から取り除くことが出来ない。それどころか人間は存在の根本的な条件として、この狂気に常にひたっている。いわゆる「正常」な、「普通」の状態は、この狂気への抵抗にすぎないのである。われわれは抵抗の力を失い、狂気に流される危機にたえず直面しているといってもいい。精神分析の考え方とはそういうものだ。だからこそフロイトは正常を理解するには狂気を研究しなければならないと考えたのである。