Monday, January 17, 2022

小説とトポロジー

わたしは数年前、軍隊小説を読みあさっていたころ、兵士たちが行軍する山道に奇妙な特徴があることに気がついた。それは最初のうちは平々凡々、誰もがよく知る山道なのだが、ずっとそれをたどっていくと、およそ非日常としかいいようのない、茫然とするような、言語を絶した光景の展開する場所へとつながっていくのだ。それはおどろくべき反転現象である。冒険小説にもこんな現象はよくあらわれる。山道をどこまでも進んで行くと、人外魔境が現出するというように。この反転現象は、メビウスの帯を思わせる(メビウスの帯と山道はその恰好がそっくりだ)。ある平面上をぐるりとめぐるように進んで行くと、いつの間にか「向き付けの不可能な」反対の面に出て行ってしまうのである。

今日出海の「山中放浪」にはこんな場面がある。激戦地の比島へ行った著者は、ジープに乗り、米軍がつくった山道を通って遁走しようとする。それは広くて実に快適・実用的な道路なのだ。著者はつい車の中でうとうとしてしまう。気がつくと周囲は真っ暗闇で、彼らは切り立った恐るべき断崖の端を進んでいた。ここにはまさに「崇高なもの」が描かれている。それは、象徴界が薄い膜を隔てて現実界とさしむかう地点、象徴界の限界を意味している。出発地点において作者は快適で実用的な、それこそ象徴界のど真ん中に位置していたが、彼はいつの間にかその反対の地点にまでたどりついてしまっていた。

わたしが翻訳したルネ・フュレップ=ミラー作「闇の深みへ」にも、このおなじ情況が表現されてている。なんでもない山道をみんなと楽しく話をしながら歩いていた主人公は、突然上官の命令で激戦地である高地へと送り込まれる。ここはそれこそ地獄のようなグロテスクな場所である。すべてが反転してしまっている。みんなと楽しく山道を歩いていたとき、主人公は娼館へ行って、大きな胸の女を相手にあそびまくることを夢見ていた。これは普通の欲望の世界である。ところが激戦地の高地では、軍の命令により、いつまでもいつまでもみずからを死の危険にさらしつづけなければならない。そこは永遠に死を欲望し続けなければならない世界、つまりあきらかに死の欲動の世界である。

このように反転した世界のあいだでは言語が通じない。「闇の深みへ」のある章では、高地で指揮を執る将軍が、電話で本部の官僚たちと話をする場面が描かれているが、この会話は失敗に帰する。将軍が自分たちの情況をいくら説明しても官僚たちにはそれが通じないのだ。向き付けが不可能とはまさにこういうことだ。彼らはメビウスの帯の正反対の地点に位置している。同じ現象は今日出海の「山中放浪」にも見て取れる。今は比島で日本軍兵士とまさしく生死の境をさまよった。彼は奇跡的に帰還してからみずからの体験を新聞記者たちに話すのだが、彼らとは全く話が通じないのだ。新聞記者は今に「貴様は愛国精神が足りぬ」といい、今は「お前らは危険を冒して取材に行っていると言うが、まだ踏み込みが進み足りず、なにもわかっていない。もっと先へ行って見ろ」という。言葉の通じない彼らは結局けんかするしかなく、今は毎度毎度血まみれになって宿に帰ることになる。しかし今の「もっと先へ行け」という言葉は胸に来る。メビウスの帯の先へ行け。反転するところまで。おまえたちはまだその地点にまで達していないのだ。

このメビウスの帯は異様な構造を持っている。連続した平面上をどこまでも歩いて行くと反転現象が起きる。それは連続しているが、どこかで非連続が生じているのだ。こういう奇怪な構造が小説の中にはあらわれる。

メビウスの帯を四次元空間で立体化したのがクラインの管だが、物語においても上記のメビウスの帯的構造が物語そのものの構造に組み込まれるケースがある。

これまたわたしが訳したクロード・ホートン作「わが名はジョナサン・スクリブナー」には四次元的な構造が見られる。後書きでくわしく書いたが、要するに物語内部の一人物が、実は物語のフレームワークそのものになっているのである。じつはわたしはこれとまったく同じ構造を、ずいぶん昔に見出していた。スチュアート・ゴードン監督「ドールズ」というホラー映画も、物語の内部で言及されるだけの人物が、じつは物語の枠組みとなっているのだ。(こちら)小説と空間このような作品構造は四次元空間におけるクライン管にたとえるのがもっとも適切だろう。内部と外部が一続きになっているのだから。このような構造においてはメタレベル/オブジェクト・レベルの区別が崩壊してしまう。

クライン管は三次元で考えようとすると、どうしても自己交差する部分が出て来てしまう。この交差の地点、ハイパー空間においてのみありえる(三次元においては不可能な)地点が、「ジョナサン・スクリブナー」においては語り手とスクリブナーの交差の地点、「ドールズ」の場合は少女ジュディと母親との交差の地点である。前者の場合、語り手の言葉はじつはスクリブナーの言葉であり、後者の場合、ジュディの欲望は母親の欲望なのである。交差の地点はクライン管が持つ奇妙なねじれの位置を示している。それはメタレベルとオブジェクト・レベルがくるりと入れ替わる地点でもある。

わたしは小説に登場する建築物に非常に興味がある。建築物は三次元的空間を表象しているように見えるが、じつはよくよく見ると幾何学的には考えられないような構造を持っていることがある。たとえば「オードリー夫人の秘密」に登場する館などはその典型である。これも翻訳したときにかなり詳しく後書きで説明したのだが、この館にはさまざまな断点が生じている。一見直線のように見えても、じつはその直線には眼に見えない断点が生じているのだ。屋敷の奥へ向かって突き進んでいるつもりだったのに、気がつくと入口に戻ってきてしまっていた、などというのはこの奇怪な断点の作用である。断点は目的論的な構えを瓦解させる。この直線のよじれもメビウスの帯を考えることで整理が可能だ。今まで自分が考えてきたことがトポロジーを参照することでずいぶんと明確になる。最近はそんなことを考えている。

独逸語大講座(20)

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