エドワード・フィリップス・オッペンハイムは十九世紀末から二十世紀前半に活躍したミステリ作家である。いや、ミステリ作家というよりロマンチック・ミステリとでもいったほうがぴったりするだろう。ミステリと同じくらいロマンスの要素も含まれているから。スパイ小説もたくさん書いているが、今のスパイ小説と比べるとずいぶんのんびりした印象を与える。なにしろスパイはたいてい貴族で、優雅な生活をし、美しいご婦人方とおつきあいしながら秘密の活動をしているのだから。しかし初期のスパイ小説とはそんなものだ。
オッペンハイムの「入れ替わった男」はその中でも名作として知られる。原題は The Great Impersonation。Great 「大いなる」などとつくところが時代を感じさせるが、よくできた話である。顔つきも体つきもそっくりなイギリス人の青年とドイツ人の青年が、偶然アフリカで出くわす。二人は学生時代をおなじ学校で過ごし、親しくつきあってもいた。しかし学校を出てからはイギリス人の方は自堕落な生活を送り、ドイツ人の方は軍人として活躍していた。その軍人の方が双子のような友人との再会を祝いながら、ふと奸計をめぐらせるのだ。イギリス人を殺し、彼になりすまして、イギリスの上流社会に潜入し、情報を盗めないか。ここから驚くべき物語が展開することになる。
興味のある方は右の欄に私の翻訳へのリンクがあるので、ご覧頂きたい。
この本を訳しているとき、一つ変な文章がある事に気づいた。それはこんな文章である。
Mr. Mangan was a lawyer of the new-fashioned school-Harrow and Cambridge, the Bath Club, racquets and fives, rather than gold and lawn tennis.
ミスタ・マンガンは新しい流派の法律家だった。学校はハロウからケンブリッジへと進み、所属する倶楽部はバス・クラブ、スポーツはgold やローンテニスよりもラケットやファイブスを好む。
私は gold にひっかかったのだが、なぜかどの出版物を調べてもみな gold だ。しかしここはスポーツ名がならんでいるのだからこれは golf に違いないと思い、訳では「ゴルフ」としておいた。たぶん一番最初に出た本に gold とあったせいだろう。活字職人の間違いがそのまま延々と引き継がれてきたのである。プロジェクト・グーテンベルグから出ている電子版も本に書いてある通り gold となっている。
最近ちょっと気になって gold が golf に訂正されているかどうか調べたら、相変わらず間違ったままだ。そこで Standard Ebooks のほうには修正のお願いを出してみた。するとすぐさま返事が返ってきて、こちらのテキストではちゃんと golf になった。この本は1920年に出たのだが、出版以来ずっと gold とあった部分が百年後に golf に訂正されたのである。訂正させたのは私である、と威張るつもりはないけれど、ちょっとだけ自慢しても罰はあたらないだろう。ちなみにオッペンハイムの記述は事実に即していて、1920年頃には確かにケンブリッジ出身の法律家が増えている。彼らは若いからゴルフなどよりラケットみたいな激しいスポーツを好んだであろうことも当然予想される。