元総理大臣が女性蔑視の発言をして世界から批判され、なんとかいうユーチューバーがホームレスを嘲弄し、謝罪に追い込まれた。偏見、差別は人間のメンタリティに深く根ざしており、アイデンティティの形成にも大きな役目を果たしている。
だから偏見や差別を批判するのは簡単ではない。われわれが「当然」と思っているような考え方の中にそれが含まれているからである。これを剔抉して批判するには不断の反省が必要になる。
大西巨人が「神聖喜劇」というとてつもない小説を書いている。軍隊生活の細密な描写であり、東堂太郎が軍隊規則で以て軍隊の非道を正そうとする異様な物語であり、軍隊生活を通して社会にはびこる差別・偏見の問題を考え、鋭い考察を随所に秘めた傑作である。
その中に忘れられないエピソードがある。東堂が属する部隊の人間はときどきお互いに散髪をしあう。東堂はいつも友人に散髪を頼む。が、部隊にはもと床屋のおやじがいて、彼は東堂に「おれにまかせなよ」とよく言っていた。しかし東堂は躊躇し、結局彼に頼むことはない。なぜ東堂は躊躇したのか。他の人々は「おれにまかせなよ」と言われて喜んで床屋の主人に散髪をまかせるのに。
これと似たような状況はわれわれの日常にもある。ずっと以前、新幹線のなかで著名なお笑い芸人を見つけた客が、「なにか面白いこと言えよ」と要求したことがあった。人のいい芸人はそれに応えてなにか芸を披露したそうだが、この客の振る舞いはあきらかにおかしい。どこかに芸人に対する偏見や差別意識がある。東堂が床屋の主人に散髪を頼まなかったのも、この差別意識、あるいはその萌芽のようなものがそこにあると感じたからだ。
東堂ははっきりと差別意識があるとは言っていない。しかし差別であるかもしれない、ないし、それが差別とはべつものであるとはっきり認識できないのなら、自分は床屋の主人に散髪を頼むべきでないと考えたのである。
こういう微妙な心理の襞に分け入ってまで、われわれは差別と戦わなくてはならない。これは気が遠くなるような戦いである。しかし私は「神聖喜劇」を読んだ時点からこの戦いに引きずり込まれている。