Tuesday, January 17, 2023

龍が如く6

外国では Yakuza というタイトルで知られた日本のビデオゲーム「龍が如く」は、わたしも大好きなシリーズである。残念ながらわたしのPCはビデオカードを備えておらず、文書の読み書きのみを目的とするスペックなので、わたし自身はゲームをやったことがない。しかしほかのゲーマーたちがプレイする様子を YouTube や Twitch で楽しく見ている。つい最近、わたしの好きなゲーマー、バニーテイルズさんが Yakuza 6 のストリーミングを終えた。わたしはそれを見ながら感慨を新たにした。サブカルチャーがときどき嫌になるくらい現実を的確にとらえることがあるけれど、Yakuza はまさにその典型だと思う。

Yakuza 6 cover art.jpg
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Yakuza シリーズはパターナリズムというテーマに太く貫かれている。日本におけるパターナリズムといえば、三島由紀夫がいろいろな形でそれを小説に表現している。とりわけ「絹と明察」は企業体における二つのパターナリズムを描いて興味深い。一つは前近代的な企業体におけるパターナリズムである。ここにおいて企業家は家父長制的あるいは権威主義的な父であり、労働者はその子という立場に置かれる。古い家制度の支配形式がそのまま会社にも持ち込まれているのである。あるいは、搾取という形態を覆い隠すものとして疑似的親子関係が導入されているのだといってもいい。もう一つのパターナリズムは近代的なそれであり、ここでは資本家は慈悲深い父としてあらわれる。この企業体においては労働者の福利厚生を手厚く行っている。慈悲深さ、思いやりのもっともよい例は終身雇用という制度だろう。しかし三島はその背後に「そのように労働者を扱った方が結局は会社の儲けになる」というきわめてシニカルな計算が働いていることを指摘している。わたしは三島の小説家としての技量をあまり評価しないが、この作品だけは非常に面白いと思う。

さて Yakuza だが、この物語は1988年、バブル経済期からはじまる。三島が描いた近代的パターナリズムが終焉を迎える時期だ。誰もが知っているように、この時期から効率化とか結果至上主義とかが幅を利かせるようになり、終身雇用を骨格としたパターナリスティックな企業風土が変質していく。そしてネオリベラリズムの大波が日本を襲い、正社員は非正規労働者に置き換えられ、親と子という疑似的な家族関係が会社からは消えてしまったのである。Yakuza はまさにこの大変化をやくざ組織の変遷を通して描いており、シリーズの最終作(つまり桐生の物語の最終作)は、「父」なるものの消滅を、桐生が社会から姿を消すという形で示している。この物語の年代は2016年である。

Yakuza 6 でとりわけ興味深いのは尾道の極道、広瀬一家の物語である。広瀬一家には Yakuza シリーズで幾度も生じる悲劇的なパターンが繰り返されている。親分の広瀬が子分たちの親を殺していた、そして罪の意識からその子供たちを自分の子分として養育してきたのである。これは桐生が親と慕う極道、風間がしてきたことであり、桐生自身も象徴的な形で堂島という極道を殺し、その子大吾の父となる。ただ広瀬一家のエピソードはそのパターンの根源になにがあるのかを示している点で非常に興味深いのだ。

端的に言えばそれは作中で「尾道の秘密」と呼ばれる政治的スキャンダルである。そのスキャンダルを隠蔽するために事情を知っている関係者を、大道寺という政治家と巌見という資本家(且つやくざ)が広瀬に殺させていたのである。おそらく風間のケースも似たようなものではなかったか。風間の弟の経歴を考えれば十分にそれはありそうな話だ。ともかくそれは father figure の最たるものである国家の汚点であり、その失敗と挫折、父なるものの欠陥の証にほかならない。父殺し、代理の父という Yakuza におけるめざましい特徴は、「国家=父」の致命的な欠如を隠蔽しようとするところから生じてきている、と言えないか。

バニーテイルズさんのストリーミングを見ていて、視聴者の一人がこんなことを言っていた。「尾道の秘密は underwhelming だ」と。秘密、秘密と喧伝された割に、戦艦大和などしょぼいではないか、という意味だ。その通りなのだが、ここで物語を享受するわれわれはただがっかりしてはいけないのだ。秘密はなるほど国家的なものであってその意味では overwhelming でなければならないのだが、同時にそれは父なるものの無能性をあらわすものであって、その意味では underwhelming でなければならないのである。高角砲を男根のように屹立させた「尾道の秘密」は敗戦の名残の鉄くずにすぎず、まさにそれは致命的な失敗としての父、死んだ父を象徴するにふさわしい。

主人公の桐生一馬も最後には「親」になるがそのなり方は変わっている。彼が行う「親殺し」はあくまでシンボリックなものである。また彼は「父」の無能性をあばきつつ親になるのだ。さらに Yakuza 6 において彼が大吾に残す「遺書」には、親の仇など取ろうと思うな、俺にそんな価値はない、と父の価値を否定する言葉を書いている。一方において己の無価値を糊塗するために父殺しを重ねるメカニズムがあるとすれば、桐生は明らかにそのメカニズムから微妙にずれており、且つ又それを否定しようとしている。その上で彼は大吾の「親」になり、大吾は彼を偉大な「親」と認めるのである。パラドキシカルな言い方をすると、桐生は親になることを否定する限りにおいて親になるのだ。

Yakuza は「父」という形象がはらむ問題を独自の角度から探っていて、興味が尽きない。この問題系が Yakuza 7 以降どう引き継がれるのか、わたしは目が離せない。もっと一般の人にも知られてよい優秀な作品である。

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