フレデリック・ブラウンは中高生のときに読みあさった。SFもミステリも器用に書きこなす才人だと思う。彼の作品はほとんど日本語に訳されていると思うけれど、本篇はどうだろうか。ちょっと調べた範囲では見つからなかった。
精神病院を抜け出した独りの男が、とある街に入り込む。彼は施設で着せられていた服を普通の服に着替え、乞食を装って食事にありつこうとする。しかし彼の目的は食べることではない。ナイフを手に入れることだ。彼はナイフを手に持っていないと落ち着かない殺人狂なのだ。
彼はとある酒場の台所で食事にありつく。そしてそこにあったナイフを手にする。その後、外から悲鳴が上がる。酒場の主人と、そこに飲みに来ていた警官トレイシーが外に飛び出す。見ると二人の男がナイフで殺されていた。一人は近くに住む雑貨屋の店主、一人はギャングの男だ。
街の人々は犯人の殺人狂が捕まるまで家の戸を固く閉ざすようになる。警官のトレイシーは自分の鼻先で起きた殺人事件の犯人を追う……。
この作品で面白いのは、トレイシーがなぜギャングの男が殺されたのか、と事件にある種の違和感を覚えるところだ。雑貨屋の店主は近くに住んでいるのだから被害者になったしてもおかしくはない。しかしなぜ近所に住んでいるわけでもないギャング団の男が殺されたのか。警察も住人もみんなが殺人狂による殺人と思いこんでいるなかで、トレイシーだけがこの違和感にこだわる。そしてそこを手掛かりにして意外な事実を突き止めるのである。
じつはトレイシー自身も自分が感じた違和感を無視しようとする。それくらいこの違和感は脆弱な存在でしかない。にもかかわらずそここそが真実への突破口なのである。
たしかに近所の住人とギャング団の一員を単純に並列すれば、その取り合わせの奇妙さに人はすぐ気がつく。ところがすべての人が殺人狂の出現によりパニックとなり、極度の緊張状態に陥ると、この奇妙さが見失われてしまうのだ。パニックは普段なら気がつく差違を消失させる。(現在の日本もこのいい例である)トレイシーはその差違にこだわった。そこからなにが生まれるか、当てはまるでない。しかしそんな差違に固執したからこそ本篇が成立したのである。ここがわたしには面白い。
ちょっとした差違、ほとんど存在しないと言ってもよいような差違、それこそが問題なのだ。