1953年に出版されたゲイ小説。精神科医のアンソニー・ペイジが、かつての愛人であったジュリアンの謎の死を調査する。ゲイ・カルチャーがまだ一般的に認められていなかった時期に書かれた本として、歴史的に貴重な本であるだけでなく、ミステリ的な要素も兼ね備えているということで読んでみた。主人公・語り手が精神科医であるという点もわたしの興味を惹いた。
先ず気がついたのは、文章が平明であっさりした味わいを持っているということ。ヘンリー・ジェイムズみたいな凝集された文章とはまさに対極的で、かすかにノスタルジック、あるいは叙情的な味わいも含んでいる。肉体的交渉は露骨に描くのではなく、示唆的な書き方ですませてあり、語り手の品の良さを感じさせた。
次に驚いたのは第二次世界大戦の頃からあったロンドンに於けるゲイ・カルチャーがかなりこまかく描かれ分析されていることだ。わたしはゲイ・カルチャーに詳しくはないが、おそらくこの記述は事実に基づくものだろう。それによると、第二次世界大戦中、ゲイたちは特定のパブを集中して訪れるようになり、やがて警察の手が入り、今度は別のパブをたまり場にするようになる。そしてまた警察の手が入り……ということを繰り返していたらしい。戦争のために道徳意識が低下していたなどということも書かれてある。もしかしたら明日死ぬかも知れないような情況におかれ、抑制的なものがきかなくなり、いわばたががはずれたような振る舞いに及んだということだ。ゲイが違法と見なされていた時代であり、今から見ると差別的な書き方だが、こういう風俗に関する情報はとても参考になる。
第三に、語り手が精神科医であるせいか、ゲイに関する社会学的、心理学的説明も多い。これは単に小説であるだけでなく、当時あまり知られていなかったホモセクシュアルの世界を一般読者に知らしめようという宣伝的意図もこめられているのだろう。その中には興味深いコメントも散見される。たとえば上流階級のゲイは、同じ上流階級の人々より労働階級の男に惹かれるのだそうだ。征服者が被征服者の文化に魅力を感じるように、あるいは左翼のインテリがプロレタリアートに魅入られるように、上流階級は労働階級の異質性に心を奪われるのだ。性的なものと階級的なものが結び附いているという点にわたしは注目した。また、あるゲイは「ゲイが発生するのは資本主義のせいである」と言ったそうだが、しかし貧困がゲイを生むというのはある程度事実ではないかと語り手は考える。なるほど。確かに本人はヘテロであっても、ある種の環境においてはホモになることがある。(監獄とか遠洋漁業の船内においてとか)わたしは今までゲイについて興味がなかったけれど、この本を読みながらイギリスに於けるゲイの歴史はどうなっているのか、調べて見ようという気になった。本書を読んではじめてわたしは同性愛に興味を感じた。
物語の前半は進行が遅く、上に挙げたような情報がふんだんに与えられるのだが、後半に入るとジュリアンの自殺の謎に徐々に迫っていくことになる。精神科医のペイジはジュリアンの知り合いを捜し出し、次々と出逢い、自殺にいたる経緯を探ろうとする。彼は自分の患者の中にジュリアンを知る人間がいることを知り、治療とみせかけつつ、ジュリアンの情報を彼から聞き出そうとする。職業倫理を明らかに逸脱しているが、そこまで読んでふと気がついた。このブログで何度も書いたけれど、論理的推論によって犯人を見出すミステリにおいて、探偵は物語の外部に位置している。このような探偵はよく精神科医と比較される。精神科医も患者が語る物語の外に位置し、その物語の核を見抜く存在だからだ。ところがハードボイルドやノワールと称される犯罪小説においては、探偵は物語に巻き込まれてしまっている。精神科医のペイジが語る物語は、じつはノワールなのだ。精神科医=探偵は物語に呑み込まれてしまっていて、職業倫理はがはや通じない世界にいるのだ。
そしてハードボイルドやノワールにおいてはフェムフェタールという物語の核に直面することで探偵は物語を突き抜けるのだが、本書においても精神科医のペイジは調査のあいだじゅうは探偵小説や冒険小説の一部と化したような気分に陥り(物語に巻き込まれており)、みずからの内面的危機に直面し、それを乗り越えたところで初めて真相に迫る(物語を突き抜ける)ことができるのだ。
本書をミステリというジャンルに振り分けることはできないだろうが、ミステリ的な読解が可能である。戦後直後のイギリスの風俗に関心がある人にも本書は興味深いだろう。