本書はジジェクの本の中では Looking Awry などと並んで、かなりわかりやすい部類に入るだろう。映画を通してラカンの議論を整理しているのでとっつきがいい。詳しい議論は省いてあるが、具体例を通してラカンの概念を説明しているので、直感的に、大ざっぱに彼の理論を把握したい人には絶好の本である。本書の白眉はチャップリンの「街の灯」論のあとに置かれたラカン・デリダ論争への真っ向からの応答である。ラカンが「手紙(Letter)は必ず届く」と主張し、それに対しデリダが「手紙は届かないこともある」と返した、例の有名な論争である。ジジェクはこれを象徴界、想像界、現実界の三方向から解説を試みているが、ここでは象徴界の議論をざっと(私流に)まとめてみたい。
ジジェクの議論で肝心なのは配置の問題である。象徴界にはさまざまな配置が用意されている。師弟関係の配置、親子関係の配置、愛し愛される者の配置などなどである。この配置の位置にすっぽりとはまりこむと、はまり込んだ者同士のあいだに師弟や親子や愛の関係が生じる。誰がその位置にはまりこむかはまったくの偶然である。こんなふうに考えればいいだろう。象徴界にはさまざまな関係を示す線が引かれている。その線の末端にはゴルフのカップのような穴が空いている。その穴にむかって偶然という名の神さまがパターを振り廻しているのだ。もちろんボールは人間ということになる。ボールは穴に入ることもあるし、他のボールに当たってそのボールが穴に入ることもある。まったく入らないこともある。そうやってたまたまはまり込んだボール(人間)同士のあいだには、さまざまな関係が生じるのである。
ここで愛し合う関係を考えて見よう。AとBという位置には愛の関係があるとする。AはBに向かって、あなたを愛しているというメッセージを発している。同様にBもAに向かって、あなたを愛しているというメッセージを発している。このメッセージは、AやBという位置に人間がはまり込む前から発せられているのだ。もしもAやBという位置に人がはまり込めば、その人は自分がメッセージを発していると「誤認」するが、じつは、その場所が特定の場所に向かってもともとメッセージを発していたのである。これが「手紙は必ず届く」という意味なのだ。愛の関係にあるAとBという「位置」は、人がそこにはまりこむ以前から、メッセージが届いている関係なのである。
われわれは「人」が愛のメッセージを発すると思うけれど、そうではない。場所がメッセージを発しており、人がその場所にはまり込むと、自分がそのメッセージを発していると勘違いするだけなのだ。それゆえメッセージは必ず届く、と言える。メッセージが届いている関係としてあらかじめ設定されているのだから。
これは面白い考え方で、じつはキム・ギドクの映画を見て私も同じことを考えたことがある。どんなに相手を嫌っていても、どんなに憎んでいる相手であろうと、二人がある場所にはまり込めば、とたんに愛し合うようになるのである。とくに「空き家」や「悪い男」という作品においてはそれが明瞭に示されている。ジジェクはこの配置の考え方をその後どう発展させているのだろうか。ちょっと調べておくべきだろう。