Friday, January 26, 2024

オクタヴス・ロイ・コーエン「死ぬのはいつでもできる」

 


原題は There’s always time to die だが、I love you again という題でも出ているようだ。話の内容はちょっとばかり手が込んでいる。

一九三七年三月、西インド諸島を周遊してニューヨークへ帰還するクルーズ船のなかで事故が起きる。ジェイソン・ラウントリーという男が船から海に落ちてしまったのだ。すぐさまラリー・ウィルソンという男が海に飛び込み、ジェイソンを救助する。ところがその際、ラリーは救助ボートのオールに頭をぶつけ、意識を失う。意識を取り戻したとき、彼は奇怪なことに気づく。彼は一九二九年に会社の金をある場所に届けに出かけたことは覚えているが、その後の記憶がまったくないのだ。二十九年以前の記憶もおぼろげだが、二十九年から三十七年、つまり物語の現在までの記憶はすっぽりと抜け落ちている。彼は自分の名前はジョージ・ケアリだと思っていたが、所持品を調べて見ると失われた八年間のあいだはラリー・ウィルソンという名前で通っていたらしい。しかも裕福な身分となり、結婚までもしていたようだ。


                        ジョージ・ケアリ  |   ラリー・ウィルソン|

                    ----------------------1929---------------------1937----

                                      (最初の記憶喪失) (二度目の記憶喪失)


彼はラリーとして住んでいた家へ帰るのを引き延ばし、自分になにが起きていたのか探ろうとする。ところが妻から緊急事態の発生を告げる電報を受け、帰らざるをえなくなる。そして彼が助けたジェイソンの全面的な協力を受けながら、緊急事態(殺人事件)に対処することになる。

一九二九年に記憶を失ったとき、彼は会社の金を運ぶ最中だった。もちろん自分が誰で、なにをしているところなのかわからなくなったのだから、彼は自分が大金を持っていることを知り驚いた。また当然会社は彼を横領の罪で訴えた。

三十七年に記憶を失った(取り戻した?)とき、彼は殺人事件に巻き込まれていた。彼が八年間住んでいた場所でとある人間が殺されたのだが、その重要容疑者がいうには、殺害が起きた時間、彼はラリーと一緒だったというのである。ラリーがそのアリバイを立証すれば容疑者はすぐに容疑をまぬがれる。しかしラリーは記憶を失い、自分が容疑者と一緒だったかどうか覚えていない。

この二重の問題にラリーは直面する。そして物語はクライマックス(殺人事件の裁判)へと向かう。

本篇ですぐに気がつくのは一九二九年から八年間の記憶がまったくない、つまり大恐慌の時期の記憶が欠落しているという点だ。大勢の人が経済的に苦しかったころ、ラリーはかなり裕福な生活を送っていた。これは何を意味するのだろう。また二十九年以前の記憶と、それからの八年間の記憶が排他的な関係にあるのはなぜなのか。八年間の間は二十九年以前の記憶を完全に失い、二十九年以前の記憶を取り戻したとき、八年間の記憶は完全になくしている。なぜ二つの記憶が共存しないのか。二つの記憶は本質的に次元の異なるものなのか。さらに、二十九年以前の記憶を取り戻したラリーはそれから数週間、ラリーであってラリーでない、宙づり状態におかれる。彼が住んでいる町には妻もいるし、友人もいる。しかも名士として通っている。しかし彼は出会う人、出会う人、みなはじめて見る人ばかりだし、妻に対してはある種の距離を取らざるをえない。彼は社会というネットワークのなかにある場所を得ているのだが、その場所におさまることに罪悪感 guilt を感じてしまう。そしてラリーは殺人事件を解決することで、guilt を感じずにネットワークのなかに身を収めることができるようになる。記憶の問題と guilt の問題はどこかで繋がっているような感じがするのだが、どういう関係があるのだろうか。

読者にいろいろと考えさせる面白い一作だったと思う。


独逸語大講座(20)

Als die Sonne aufging, wachten die drei Schläfer auf. Sofort sahen sie, wie 1 schön die Gestalt war. Jeder von ihnen verliebte sich in 2 d...