推理小説ではよくある、遺言をめぐる殺人事件を扱っている。キャッスルフォード夫妻は立派なお屋敷に住んでいたが、その生活費は資産家の妻の懐から出ていた。夫は以前はそれなりに売れていた肖像画家だったが、ふとした事故で指を二本失い、今は妻に養われる身分である。妻は最初のうちは夫を愛していたが、移り気な彼女はしだいに彼に愛想を尽かすようになる。その変化に伴って遺書の内容も変えようと考え始める。妻は最初のうちは膨大な遺産を夫に遺贈するつもりだったが、彼女の兄弟たちの狡猾な示唆に従い、それを変更しようと考えるのだ。そして遺書の内容が本当に変更されようとするその瞬間に、彼女は殺害されるのである。当然、遺書の変更によって損をする人がその犯人ではないかと疑われることになる。
コニントンは非常に念入りに描写を重ねる作家である。登場人物は類型的なのだが、それでも類型性を丁寧に説明する。いささか煩瑣なきらいがないわけではない。しかしこれが事件現場や手掛かりに関することとなると、話はちがってくる。事実を一つ一つ検証していくその書きっぷり、それこそ石橋を叩いて渡るような堅実さは、推理小説の興趣をかきたてる。作者は読者に対して完全なフェアプレイをいどんでおり、探偵が手にする手掛かりはすべて読者に提示される。そして大団円となる探偵の推理の開陳は、まことに論理だっていて、すべての手掛かりがぴたりと組み合わされて事件の全体像を提示する。コニントンというのはあきれるくらいにミステリの黄金期を体現した作家である。
じつを言うとこの小説を読んでいて一瞬不安になることがあった。地元の警察が事件を捜査し、キャッスルフォード夫人の夫が犯人ではないかと考えるのだが、娘が高名な探偵に連絡をし、そうではないことをあきらかにして欲しいと頼むのだ。このように事件の渦中にある人物から依頼を受け、その意向に沿う形で探偵が活躍する場合、物語はいわゆる「本格推理」とはならない。「本格推理」となるには探偵は事件から距離を置いていなければならないのだ。だからそこまで読んだとき、それまでの「本格推理」を目指した書きぶりが無駄になりはしないかと、危惧をしたのである。しかし探偵は依頼を受けて、こう言う。自分が事件にかかわるならすべてを疑う立場に立つ、と言明するのである。父を助けてくれという娘の依頼に応えるのではなく、事件のすべてから距離を置き、客観的に捜査を行うというわけだ。それを読んで、わたしは安心して推理ゲームに没頭した。
時代背景や、科学的知識の有無が問われるところもあるけれど、じっくり考えれば誰が犯人かはあたりをつけることができるだろう。犯人の意外性という点ではそれほど傑出しているとは思わないが、しかし堂々たる本格推理で、黄金期の香り高さが味わえる。