フレドリック・ブラウンは1972年の没だから、とっくに日本ではパブリックドメイン入りしている。ブラウンは才人で、どの作品も面白く、わたしもほとんどの作品を読み尽くしていると思う。翻訳したい気持ちはあるけれど、だいたい訳が出ているし、今でも人気作家だから、今後新訳も出続けるだろう。なるべく商業出版とは重ならない領域で仕事をしたいので、ブラウンはよほどのことがないかぎり手を出さないつもりだ。
「なんたる狂った宇宙」は中学生ぐらいのときに読んだから何十年ぶりかの再読である。読み返してこんな話しだったのかとびっくりした。完全に内容を忘れていた。
名作リストに載るくらいだから詳しい筋の紹介は必要ないだろう。SF雑誌の編集者ウィントンがふとしたことからパラレルユニバースにさまよいこんでしまう。そこでは地球は気味の悪いエイリアンと生存をかけた戦いを繰り広げており、地球軍の指揮を執っているのはドペルというハンサムな英雄だった。ウィントンはこの世界でエイリアン側のスパイと間違われ命を狙われるのだが、物語の後半にいたって、ある秘密に気づく。彼がさまよいこんだ世界、これは彼が編集する雑誌のファンであるドッペルバーグという男の夢想する世界なのだ。英雄ドペルはドッペルバーグが夢見るおのれの姿であり、この世界のさまざまな奇矯な特徴はドッペルバーグがいかにも思い描きそうな世界のありようを示している。ウィントンはいわばドッペルバーグの夢の世界にまぎれこんだのである。
しかしこの設定には二つほど疑問が残る。第一にウィントンがこの世界に跳び込んでくるという事態ははたしてドッペルバーグが夢想するような事態だろうか。この小説の説明によると宇宙には無限の可能世界が存在しているということだから、ドッペルバーグが夢想する世界にウィントンが跳び込んでくるという世界があってもかまわないのだろうが、そうすると可能世界とういのは他の可能世界からの干渉を受けうるということになるのだろうか。
第二にウィントンをドッペルバーグの宇宙に飛ばした、ある科学現象は無限の可能世界とどういう関係にあるのだろう。この科学現象によって人がある宇宙から別の宇宙に移動するということは、前段で書いたように、個々の可能世界は独立した存在ではないということになる。干渉を可能にするような科学現象は、可能世界とどういう関係にあるのか。この科学現象は存在論的にどのような位置を占めるのか。量子力学でいう多世界解釈というのは、わたしの生半可な理解では、たしか世界間の干渉は考えられていないはずである。
わたしはこの話がパルプらしい、荒唐無稽なものだということをいいたいのではない。逆に現実にあることをパルプらしい荒唐無稽なシチュエーションに置き換えただけではないかと考える。われわれはそれぞれ欲望を持って生きている。そしてときどき、どういうわけか、知らぬ間に他人の夢に巻き込まれてしまうことがある。具体的には戦争や、さまざまなイデオロギー的対立を考えればよい。この不思議な事態をブラウンは、量子力学の多世界になぞらえ、SF的に考察しているのではないのか。欲望、夢、イデオロギーといったものの構造を探るヒントがこの作品にはあるような気がする。フィリップ・K・ディックの名作 EYE IN THE SKY も読み返したくなった。