この作品では私立探偵リュー・アーチャーは、ホーマー・ウィチャリーという石油で儲けた富豪から娘のフィービを探してくれと頼まれる。船旅に出るホーマーを船まで見送ったあと、彼女は行方不明になったというのである。アーチャーはいつもの通り手掛かりを追い、チンケな悪党どもの跋扈する世界に迷い込み、一度は不意の襲撃を受けて頭に大けがをし、もちろん人殺しの現場にも出くわす。そして事件の輪郭が見えてきたとき、アーチャーはウィチャリー家そのものと向かい合う。事件の核心はウィチャリー家の外にあるのではない。その内部にこそ闇が潜んでいるからだ。
この本で面白かったのはリュー・アーチャーが依頼人のホーマー・ウィチャリーになりかわってしまうところである。二人がはじめて出会ったとき、ホーマーは言う。「わたしがホーマー・ウィチャリーだ。きみはリュー・アーチャーさんだね」何気ない挨拶の言葉だが、ここでは「わたし」と「あなた」が截然とわかたれている。ところが調査の途中でリューは情報を聞き出すためにわざと自分がホーマーである振りをする。最初のうち、アーチャーは嘘をつく自分に居心地の悪い思いをするが、次第に慣れて来るとこんな感慨をもらす。
何度も嘘を繰り返すと心に奇妙な変化が生じる。しょっちゅう口にすることが暫定的な真実になるのだ。わたしはフィービが自分の娘だとなかば本気で信じている自分に気づいた。彼女が死んでいたら、わたしはウィチャリーの喪失感を共有することになるだろう。わたしはすでに彼の妻に対する彼の気持ちを共有していた。
彼は他人の立場に立ち、他人の感情をわがものとして感じてしまう。この不思議な感覚はこの小説を理解する上で非常に大切だろう。なぜなら事件の中心にいるホーマーの娘フィービは、まさにウィチャリー家の個々のメンバーの罪を、わがこととして、一身に引き受けてしまう存在だからである。この小説に於いてフィービが直接描かれることは最後を除いてほとんどないといっていい。しかし彼女の心に起きた「奇妙な変化」はアーチャーの「奇妙な変化」を通して説明されているのである。
関係性が変化すると、感情まで変化する。関係性は個人の外的な規定であって、内面はそれとは独立していると、人はよく考える。しかしそうではないのだ。関係性こそ内面を構成する。外部こそ内部なのだ。わたしがマクドナルドを好むのは、この認識のゆえである。
ロス・マクドナルドの描く「さまよう娘」のなかで私はフィービがいちばん悲劇的な存在だと思う。周囲の人間は好き勝手にやっているだけなのだが、フィービはその罪をすべて背負い込み、自分の罪として苦しむ。わたしはそういう人が実際にいることを個人的に知っているから、この小説にはとくに痛切な思い入れがある。