Monday, July 29, 2024

エリザベス・ホールディング「未完の犯罪」

 

本作の主人公アンドリュー・ブランスコウムはニューヨーカーで会計士をしている。収入はそこそこあり、まだ未婚。妙にプライドが強く、人を区別し差別する癖がある。この癖は上流社会にあこがれつつも、それになりきれない自分に対するコンプレックスの裏返しの表現と言えるだろう。きわめて自己中心的な俗物。一口で云えば、嫌なヤツである。彼は妹のエヴァと暮らしていて、ヒルダ・パートレルという女性とおつきあいをしている。ヒルダ・パートレルは夫と別居している優しい女性である。ところがアンドリューは彼女が夫と離婚したものと思っていたから、あるときただの別居状態であることを知り、ショックを受ける。

ショックを受けたその直後にアンドリューはヒルダの夫にたまたま林の中で遭遇する。そしてかっとなった彼はヒルダの夫を殺害してしまう。ここからアンドリューは殺人を隠蔽しようとしてさまざまに工作を重ねることになる。Aという工作をすればBという工作が必要になり、Bをすると今度はCという工作をしなければならなくなる。悪い連鎖が次々と起こり、その結果は言うまでもないだろう。

アンドリューは、何か不都合があるとすぐに他人のせいにする、じつにいやな男である。だから一緒に暮らしている妹以外、友だちらしい友だちがいない。かつ、彼は自分を優れた人間、有能な人間と考えようとする。主人公に感情移入する読み手なら、最初の十ページで読むことをやめてしまうような、好感度マイナス100くらいの男だ。ある意味で彼は「他者」を許容しない。自分の言うとおり、望むとおりにしない者を切り捨てていく。同時に、他者にぶつかっても、自分にはこの他者をコントロールする力があると勝手に信じ込む。こういう男の転落を本作は描いている。

アンドリューはわれわれのなかにある唯我独尊的態度、あるいは独我論的態度を拡大し強調したものである。人間は、自分の意志とはまったく異なる動き方、考え方をする「他者」と共に生きていかなければならないが、アンドリューにはそれができない。ある種の右翼は外国人を敵視し、彼らを排除しろ、あるいは抹殺しろなどというが、これも「他者」に耐えられない人々なのである。われわれはどんな人も多かれ少なかれこのような態度を持っている。アンドリューの心理は異常だが、それは人間の心理の一部分を拡大鏡で強調してみせただけなのだ。

物語の最後の数章は異様な迫力を帯びる。アンドリューは最後の工作により、一気に自分の窮地を脱しようとするが、思わぬどんでん返しに出会い、唖然としてしまう。本作は全体としてみたとき、それほどすぐれた作品とは言えないが、しかし人間心理の異常性に着目するホールディングらしさをよくあらわしているのは間違いない。

ロス・マクドナルド「ある人々の死に方」

  これは高名な作品だから筋を知っている人は多いと思う。一応簡単に紹介すると…… 私立探偵リュー・アーチャーはミセス・サミュエル・ローレンスに行方不明になった娘を探してくれと頼まれる。アーチャーは彼女のあとを追って米国西海岸の裏社会、ヤクザやクスリの売人や売笑婦らの世界に足を踏み...