crossexaminingcrime というミステリを扱ったブログで、2024年に出たリプリント(古いミステリの再刊本)大賞を読者投票で選んだところ、エセル・リナ・ホワイトの小説が二作、十位以内に入っていた。「車輪は回る」がセシル・ウィルズの「真夏の殺人」と同率で十位、そして「恐怖が村に忍び寄る」が単独八位だった。ブログの書き手であるパズル・ドクタは、ヒッチコックによって映画化された「車輪は回る」より無名の作品の方が順位が上なので驚いている。(こちら)
わたしは数年前に「本邦未訳ミステリ百冊を読む」というブログで「恐怖が村に忍び寄る」をレビューして、すごい作品であると絶賛したので、この結果には満足である。(こちら)べつに「恐怖が村に忍び寄る」のほうが「車輪は回る」より優れているというのではない。どちらもすごい作品だと言いたいのである。
エセル・リナ・ホワイトの可能性に目を開かれたわたしは、「車輪は回る」をいつか読み返そうと思っていた。単なるスリラーとして消化してしまっていたが、読み方を間違っていたかも知れないと思ったのである。
この話は有名なので詳しくは紹介しない。主人公である金持ちの若い女アイリスがヨーロッパ旅行の帰りの列車の中で、同じイギリス人の女性ミス・フロイと知り合うが、そのミス・フロイが忽然と消えてしまう。彼女とは食堂車で一緒に食事したのだが、そのとき周囲にいたはずの人に尋ねても、皆、そんな人は知らないと言うのだ。彼女はヒステリックになりながらミス・フロイを探し、ついにある真相に気づく……。
読み返して気づいたことがいくつかある。ここでは三つほど書きつけて置く。
まずは山道について。映画では小説の冒頭の部分がだいぶ改変されているので、主人公のアイリスが山道に迷い、くたびれきって泊まっている山荘に戻るという場面がない。しかしここは重要だと思う。山道というのはメビウスの帯に形が似ているが、それとおなじように、そこをくるりと一周すると、元の地点に戻ったようでも、じつは反転した世界に来ている、ということがある。アイリスは裕福な女で、友だちが大勢いて、友だちがなすことをいっしょにし、友だちが考えるようにものを考えていた。要するに社会というものの内部にどっぷり浸かっていたのである。ところが山道を歩きまわり、ほうほうの体で山荘に戻ったとき、彼女は社会の周縁に立っていた。ラカンふうに言えば、象徴界(社会)にどっぷり浸かっていた彼女は、山道を迷い歩いた結果、象徴界の境界線上に立たされてしまうのだ。象徴界の境界線上に立つとはどういうことか。象徴界の内部に完全に組み込まれていたとき、彼女は象徴界(つまり社会)の規則をありのままに受け容れていた。象徴界の境界線上に立つとは、なぜそのような規則があるのかと、象徴界に疑問をつきつける存在になるということである。たとえば「あなたはわたしをXだというが、なぜわたしはXでなければならないのか」という疑問を発する存在になることだ。つまりヒステリックになるということである。まったく無思想な、自足しきった女がヒステリックに転換する地点に、山道があるということは非常に面白い。山道を通ることで存在の様相が反転する例は文学作品のなかにはいくつも見出される。
つぎに男が問題になる。なにしろヒステリックな女があらわれたら、男が問題にならざるをえないだろう。この作品において男は象徴界を守る側に立っている。そういうふうに見えるのだったら、そういうものだと受け取ればいいではないか。それをなぜ疑うのか、という言説があちこちにある。みんな男の台詞だ。世の中とはこういうものだ、わざわざそれを疑って波風を立てるな、と男どもは言う。しかし象徴界の真実を見抜く(事件を解決する)のはヒステリックな女である。だからジジェクのような哲学者は、真に批判的になるにはヒステリーの女の立場に立たなければならないというのである。
そして言語の問題。アイリスは最初のうちは旅行先に行っても大勢の仲間がいて、特に言語で困ったことはなかった。しかし山道で迷ってからは単独行動となり、言葉がまったく通じず何度も往生する。これは面白い。言語は象徴界の代表みたいなものだから、彼女はその外部とまでは言わないが、その境界においやられてしまったことを意味しているだろう。まだはっきりと頭のなかで整理がついていないけれど、ミス・フロイが消えてしまうという事態は、アイリスが象徴界からはじき出されることと相関関係にあるはずである。この問題は非常に興味深く、ヒッチコックの映画の解釈が色々出ているから、それらを勉強したうえで、もう一度考え直して見ようと思っている。
「恐怖が村に忍び寄る」は単純な二項対立的思考を徹底的に批判した内容になっていて、唖然としたが、「車輪は回る」もすばらしい出来だ。そうか、エセル・リナ・ホワイトとはこんなに理知的な作家なのかと感服した。「らせん階段」や他の作品もさっそく読み返そう。