二人の男女が青年期から中年にいたる期間(一九六三年から一九八八年の四半世紀)を幾度も繰り返し生き直すという物語である。悪くはない。いちおう最後まで読ませる面白さはある。実際ワールド・ファンタジー・アウォードを得ているらしい。しかし通俗的であることは否めない。時間のループにとらわれた彼らが物語の最後にもらす感慨は、古くさい道徳的な響きがあって、異常な体験をした者の認識としてはなんとも物足りない。似たような時間ループを描いたウィリアム・オファレルの「リピート・パフォーマンス」のほうがはるかに出来は好い。こちらは一九四二年の一年を主人公が反覆して生きるのだが、ノワール的な雰囲気が強烈な魅力になっていて、かつ深く考えさせるものを持っている。戦後の成長期と戦時中の独特の暗さが、作品の深みに反映しているのだろうか。
われわれは人生を生き直すことができるなら、過去の失敗は避けることができるだろう、それゆえよりよい人生を送ることができるだろうと考える。しかしなかなかそううまくはいかない。たとえば「再演」の主人公の一人ジェフは野球の試合の結果を知っていたから、二度目の人生では賭けで大儲けをする。このような「知識」は目に見える形で象徴界に影響を及ぼす。
しかしどのような知識を持っていようと、象徴界を操ることはできない。それは知識が不足しているからではなく、象徴界は知識によってはつかまえられないなにかによっても動いているからである。それが現実界の作用である。「再演」も「リピート・パフォーマンス」もその現実界の作用を描いている。つまりいずれの作品においても主人公たちは自分たちの意のままにならない情況にいらだちをおぼえる。
「再演」が詰まらないのは、意のままにならない情況を、登場人物が結局そのまま受け容れることで満足してしまうからである。いってみればニューエイジ的な諦観とでも言おうか。それを東洋的な智恵として受け容れ、終わっているのである。
「リピート・パフォーマンス」においては現実界の作用、象徴界に存在する亀裂が強く意識されている。亀裂を亀裂のまま描き、それを諦観で単純に受け容れていないところがいいのだ。「再演」においては亀裂が糊塗されるが、「リピート・パフォーマンス」においては亀裂が亀裂のまま表現されているのである。どちらが知的起爆力を持っているかといえば、もちろん後者だ。