Friday, May 23, 2025

マイケル・フリードマン編「トポロジーの観点から見た精神分析」

 


この本は自分にはやや専門的すぎるかなと不安を抱えながら読んだ。案の定、よくわからない部分もあった。とくにサモ・トムシッチやクローディア・ブリュムルの論文は専門家むけに書かれた難解なもので、正直、読み終わってもぽかんとさせられた。しかし啓発されたところもいくつかある。面白いと思った論点をわたしなりの言葉で書きつけておく。

1.フロイトを読むと物理学的な用語が頻繁にあらわれる。それは精神分析という新しい学問を自然科学のなかに位置づけようとする狙いがあったからだ。彼の叙述にはトポロジカルな観点がないわけではないが、それが明白に問題化されるのはフロイトの論理を整理し直したラカンによってである。

トポロジーというのは、なにかの図形を切ることなく、連続的に変形しても保たれる性質を研究するものだ。たとえば紙コップがあるとしよう。普通われわれはそのコップにどれくらい水が入るかと、深さや大きさを問題にする。さて、このコップが紙ではなく、ゴムよりも伸縮自在の素材でできているとする。すると徐々にコップを外側に展いていって、円形の平べったい平面に変形することが可能だとわかる。トポロジーにおいては変形前の紙コップと変形後の平べったい形のものはおなじであると見なされる。平べったいものを見れば、紙コップのときにわれわれが見た深さはじつはある種の錯視であったことがわかるだろう。

俗流精神分析ではよく無意識は心の奥底に存在しているように言われるが、トポロジーを導入したラカンはそれを否定する。無意識は紙コップの深さとおなじで奥底にあるように見えるとしたら、それは一種の錯視なのである。平べったい状態を考えれば、無意識は意識と同一平面上にある。柄谷行人はどこかで、無意識は深層にあるのではなく、隣にある、と言っていたが、これはラカンと同じことを言っている。

2.ラカンとフロイトの概念はパラドクスに満ちている。一つの例が「事後性」(Nachträglichkeit)の概念である。たとえばある瞬間(T1)の出来事は、それ以後のあるとき(T2)になってはじめてトラウマとしての効果を持ちはじめる。このときT1はT2の原因とみなされるけれども、通常の意味での原因ではない。通常の意味ではT1は結果T2を必ず生じさせることになる。ところが精神分析においては、そのような因果律は成立しない。T1があったからといって、必ずしもT2が発生するとはかぎらないのだ。つまりトラウマ的な体験をしたからといって、必ずそれがあとになってなにかの心的障害をもたらすとは決まっていない。心的障害が起きて、はじめて以前のある体験がトラウマ的であると認識されるのである。未来の時間T2が過去の時間T1をみずからの原因とか根拠に変質させる、というわけだ。

精神分析には「対象a」とか「現実界」とかパラドキシカルな概念が山ほどあるが、こうしたやっかいな構造をあらわすには三次元的なイメージではうまくいかず、メビウスの帯とか、クロスキャップとかクライン管といった四次元に属する逆説的な図形を利用しなければならない。

3.ムラーデン・ドラーの論文はいちばん読みやすく、刺激的だった。彼はラカンの議論のとりわけ声にかかわる部分に特別な注意を払っている学者だ。彼はここで内なる声、あるいは主体の分裂を問題にしている。われわれはそれぞれ主体 Subject であるけれど、その核心はなんだろうか。たとえば事故で指をなくした人がいるけれども、その人は指がない分だけより主体ではないとは言えない。肉体の損傷は主体の概念とは関係がないのだとしたら、なにをもってわれわれは自分を主体と考えるのか。もっとも考えられそうなのは心の声、内なる声ではないだろうか。しかしドラーの論文を読むとこれまた問題がありそうだ。内なる声を発する主が存在するということは、それを聞いているなにかも存在するということではないだろうか。だとすると主体は声を発するものとそれを聞くものとに分裂しているということになる。(実際、ラカンは主体を$と表記した。主体は線によって分割されているのだ)いったいこの輻湊する内なる主のどれが「わたし」なのだろうか。主体はじつは複数存在し、単一の主体性なるものはじつは幻想なのだろうか。あるいはこの複数存在する「わたし」がいつの間にか奇怪な階層性を生み出し、そのトップにたまたま立った「わたし」が主体という幻想のもとになるのだろうか。

特に結論らしきもののないこの議論が面白いのは、小説における「作者」と「登場人物」の概念にかかわってくるからである。物語のなかにはさまざまな立場の人間が登場人物としてあらわれる。この登場人物たちは「わたし」の内部にあるさまざま「声」ではないのか。そして「作者」はこれらさまざまな声を小説という形にまとめあげていく、一段上の階層にある「声」と見なせるだろう。しかし「作者」の声はもともとは登場人物の声と同一平面上にあったものなのではないか。それがある種トポロジカルな錯視の結果、登場人物の声を統括する声のように見えてしまうのではないか。マルクスは貨幣が商品群のなかから特権的なものとして析出されるさまを理論的に考えたが、作者も登場人物群のなかから析出されるのではないか。

わたしは「ドールズ」というホラー映画と「わが名はジョナサン・スクリブナー」という小説において、物語内部の周縁的存在が、じつは物語の枠組みを決定しているという奇妙なループ構造を見出して以来、作者と登場人物の関係をずっと考えているが、ムラーデン・ドラーはヒントになりそうなことをちょっとだけ与えてくれたと思う。

エドワード・アタイヤ「残酷な火」

  エドワード・アタイヤ(1903-1964)はレバノンに生まれ、オクスフォード大学に学び、スコットランド人の女性と結婚した作家である。自伝や「アラブ人」という評論が有名だが、ミステリも何冊か書いている。ウィキペディアの書誌を見る限り「残酷な火」(61)は彼が書いた最後のミステリ...