Friday, June 20, 2025

注目のPG作品

 今月わたしが注目した Project Gutenberg の作品は


1.J.E.ド・ベッカー「不夜城 吉原遊郭の歴史」(1906)

この本はどこかから翻訳が出ているのだろうか。図版類は写真や絵だけでなく、地図やら契約の書式まで収められ、吉原の全貌がわかる大著である。全部は読んでいないが、拾い読みをはじめると面白くて時間が経つのを忘れる。吉原については「吉原雑話」とか「吉原大全」とか「吉原鑑」とかいろいろな本が出ているが、ド・ベッカーはそれらもきちんと調べているようだ。たいした日本語力である。

店の仕組みはもちろん丁寧に紹介されているが、遊郭の女たちのあいだで流行っていたおまじないまで大量に採取されているのにはびっくりした。思いを寄せる客に来てもらうためのまじないとか、月経を止めるための方法まである。くしゃみをすると誰かに噂されている証拠、という迷信は世界中にあるが、吉原では「一回のくしゃみは誰かにこっそりほめられている証拠、二回は悪口を言われている証拠、三回は誰かに愛されている証拠、四回は風をひいた証拠」だったらしい。

本書の情報量には圧倒されるが、吉原が日常的な世界から切り離されながらも、一個の宇宙をなしていたことがわかる。


2.ルドルフ・ヘルツォーク「コーネリウス・ヴァンダーヴェルツの伴侶」

作者のルドルフ・ヘルツォーク(1869-1943)は第二次大戦がはじまる前のドイツ、つまりワイマール共和国の時代に人気のあった作者である。最初はロマンチックな物語を書いていたが、そのうち勤勉さとか国家への義務を重視し、家父長的な見方を強めた作品を書くようになり、当然予想されるようにナチスを支持した。そのせいか、亡くなって以後は忘れられた作家になってしまった。

しかし彼の文章はドイツ語学習者にはありがたい平易さがある。ドイツ語は文章が長くて構造が複雑だ、とよくけなされるが、それはマルクスみたいな一部の書き手に言えることで、ニーチェのようにわかりやすいドイツ語の書き手だって多いのである。ヘルツォークもその一人で、たとえば本書の冒頭の段落はこんな具合に書かれている。

Das Mädchen stand mitten auf der Landstraße, als Kornelius Vanderwelts Wagen in weiter Ferne wie eine winzige Staubwolke sichtbar wurde. Die Hände hielten das im Winde flatternde Mäntelchen in den Taschen am Körper fest. Der kleine Handkoffer ruhte wohlbehütet vor dem Straßenschmutz auf den Stiefelspitzen.

初級文法を終えた人なら楽に読めることがわかるだろう。


3.ヒューゴ・ベッタウアー「ユダヤ人のいない街」

ヒューゴ・ベッタウアー(1872-1925)はオーストリア人。彼も生前は人気のある作家で、その作品はよく映画にもなった。しかし反ユダヤ主義的な立場を取っていたためナチスに殺された。彼のもっとも有名な小説は Die Stadt ohne Juden 「ユダヤ人のいない街」(1922)だ。これは絶滅収容所への移送を思い起こさせる場面を含んでいて、予言的と称される物語だ。この英訳版がつい最近プロジェクト・グーテンバーグにアップロードされた。。ドイツ語版ももちろんある。さらに YouTube では映画も見られる。(こちら)サイレント映画なので音声は音楽だけ、ときどき字幕がはさまれるが、これは簡単なドイツ語なので理解に問題はない。


ドイツ語版の表紙

エドワード・アタイヤ「残酷な火」

  エドワード・アタイヤ(1903-1964)はレバノンに生まれ、オクスフォード大学に学び、スコットランド人の女性と結婚した作家である。自伝や「アラブ人」という評論が有名だが、ミステリも何冊か書いている。ウィキペディアの書誌を見る限り「残酷な火」(61)は彼が書いた最後のミステリ...