Xというのは家族が崩壊し、路上にはじき出され、自分を性的商品として売りながら生活しなければならなくなった十代の少女たちのことである。「マルカム・X」ではないが、このXは人間としての人格やアイデンティティーが失われた状態を示唆している。なにしろみずからを商品(モノ)にして売らなければならないのだ。モノになるということは、みずから人格やアイデンティティーを否定することである。
この人間のX化は家出少女だけに見られるものではない。
国会質疑である議員が非正規労働者の問題を取り上げた。そのなかで彼女は、ある非正規労働者が職場において名前ではなく「ヒセイキさん」と呼ばれていて、非常に屈辱的に感じたという話をした。「ヒセイキさん」も名前を認知されていないという意味でXとおなじである。非正規労働者は会社によって自由に採用したりクビを切ったりできる、使い勝手のいい道具でありモノなのだ。そしてモノには名前がない。人格やアイデンティティーは存在しない。
カントは人間の人格を手段としてだけではなく、目的として扱え、という有名な言葉を残しているが、まさしく非正規労働者は手段としてしかとらえられていないのだ。
逆に言えば名前には人格やアイデンティティーが結びついているということでもある。だからこそ結婚しても名前を変えたくないという女性が大勢いるのだ。選択的夫婦別姓はそのような人間の人格やアイデンティティーを尊重するシステムだと言える。
「路上のX」を読みながら、わたしはXが労働者を徹底して商品化する新自由主義からジェンダーにまでわたる、大きな問題のありかを指し示すキーワードではないかと考えた。桐野夏生の作品はいつも特殊な個を描きながら、もっと大きな問題へと読者を誘っていく。すくなくとも買春する少女たちをニュースでさらし者にするような考え方ではXの本質はいつまでもつかめない。
物語の中心にいるのは真由とリオナという二人の少女だ。真由はそれなりに裕福な家庭に育ち、勉強もよくできたのだが、突然叔父の家に預けられ、両親は姿を消してしまう。そこから彼女の人生が狂い始める。リオナは親がヤンキーで、愛情を受けずに育ち、最初からJKビジネスという性的搾取の機構の中で生きていかざるを得なかった。この二人がくっついたり離れたりしながら物語は進む。
正直、路上の生活はあまりにリアリスチックに描かれ、読むのが苦しいくらいだった。しかし突如自分の居場所を失った少女たちの命運は気になって仕方がない。最後は続編が書かれそうな、ぼんやりした終わり方になっている。Xという問題に桐野夏生がどんな決着をつけるのか、それともつけ得ないのか、興味津々である。