Friday, September 26, 2025

アガサ・クリスティー「アクロイド殺し」


最近クリスティーの代表作を読み返しながらいろいろなことを考えた。

「アクロイド殺し」が出たのは1926年。しかしこの有名な叙述トリックはそれ以前にも用いられている。谷崎潤一郎の短編「私」が出たのは1921年だし、スヴェン・エルヴェスタッドの長編「鉄の馬車」が出たのは1909年だ。どうやら二十世紀の初頭は、一人称の語りに問題があるということが世界的に認識されだした時期らしい。ちなみにヘンリー・ジェイムズの「ねじの回転」(若い家庭教師の手記として書かれている。つまり一人称の語りだ)はそれまでたんなる幽霊譚と見なされてきたが、それを信頼できない語り手の物語と見事に読み替えて見せたエドマンド・ウィルソンの論文は1934年に出ている。

もともと小説などというものはいかがわしい産物であって、日本でも「源氏物語」なんか読むヤツは地獄に墜ちるといわれていた。西洋でも事情は変わらない。十八世紀にはやった書簡小説の序文を見ると、作者は道を歩いているとき偶然手紙の束を拾った、読むと面白いので、自分が不適切な部分やつたない表現に手を入れて、ここに出版する、などと書いてある。要するに、この物語は作者がでっちあげた物語ではない、と言い訳をしているのである。そうでなければ作家みたいな口先三寸の嘘つき野郎が書いた物語など誰が読むか、という空気があったのだ。「ねじの回転」のプロローグだっておなじような言い訳である。とある男が、自分の友人の知り合いの家庭教師の手記を、そっくりそのまま読者のご覧に入れよう、と書いてある。ちなみに、自分が書いたものではないと言い訳をして物語の客観性を保障する技法を、ディスタンスの技法という。

ところが次第に序文など書かれなくなり、大衆は物語を素直に享受するようになった。いまだに「小説なんて嘘っぱちだ。おれはノンフィクションしか読まん」という人はいるけれど、たいていの人は、物語が「わたし」によって語られていたら、素直に「わたし」の語りを信じるようになってしまった。

クリスティや谷崎やエルヴェスタッドは、語り手に信頼を寄せるようになった読者たちに対して背負い投げをくらわせたのだ、といっていいだろう。

しかし問題はこれだけにとどまらない。嘘つきの語りは確かに信用できないが、明白に嘘をついているのでなければ信用していいかと云えば、そうではない。問題は「すべての語り」がある種のバイアスを帯びているという点である。「アクロイド殺し」においてはある事実が最後まで隠匿されている。客観を装いつつもある種の事柄は語られない。この語るか、語らないかという取捨選択はすべての物語において生じる。そしてこの取捨選択がすでに語り手の特殊なバイアスによって行われているのである。どれほど作者が事実を書こうとしても、どれほど客観的な記述を志そうとも、このバイアスからは逃れられない。フランスのヌーボーロマンなどはこの問題系に偏執的な関心を寄せているように見える。

精神分析の受容が進んだ現在では、われわれはさらなる一人称の語りの奇怪な問題点に逢着している。一人称の語りはもちろん「わたし」が語るのだが、精神分析においては「わたし」が語るとき、「誰が語っているのか」そして「どこから語っているのか」が問われなければならない。われわれは言語を使用しているのではなく、言語に使用されている。あるいは、われわれは言語を書いているのではなく、書かれているという認識が受け入れられるようになったのだ。ピエール・バイヤールの驚くべき「アクロイド殺し」論は、まさにこの観点から書かれている。バイヤールは「アクロイド殺し」の語り手の背後に別の人物の欲望が存在すること、いわば「わたし」の二重性を見出した。そしてこの二重性が「アクロイド殺し」の叙述に混乱をもたらしていると指摘したのである。

バイヤールの議論は理論的洗練を持っていないせいだろうか、あるいはミステリは所詮知的遊戯という思い込みが広がっているせいだろうか、それにふさわしい注目をあびていないと思われる。しかしこれは小説論としてだけでなく、主体のアイデンティティといった哲学的な問題にも拡大しうる論点を含んでいる。じつはわたしも1990年頃からこの問題に就いて考えてきた。きっかけはスチュアート・ゴードン監督の「ドールズ」というホラー映画だった。主人公の少女の欲望がその母親の欲望の反映であることに気づいたのだ。そして少女の欲望の物語と見えたものが、じつはべつの存在の欲望の物語であると解釈可能だとわかった。また数年前に翻訳したクロード・ホートンの隠れた名作「わが名はジョナサン・スクリブナー」においても、語り手の「わたし」に二重構造が認められることに気づいた。(詳しくは後書きを読んでほしい)

ちょっと話がずれたが、クリスティーの「アクロイド殺し」をはじめとする一人称の問題を扱った作品群は、「わたし」の奇怪なありようを探るきっかけを与えてくれているように思われてならない。

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