日本人初のダガー賞を取ったということで、読まずにいられなかったのだが、図書館の予約が詰まっていて、ようやく手垢とコーヒー染みとお菓子をこぼしたらしき跡のついた本が手に入った。
一気に読んだ。
極上のパルプ小説である。
パルプには粗製乱造のイメージがつきまとうが、わたしが極上のパルプというとき、それは物語への熱気にあふれた作品という意味だ。何か語りたくてたまらないものが身体のなかにある。表現しなければならないなにかがある。それを爆発させた作品、リアリズムや小説のコンベンションやしゃらくさい枠組みを無視した、いや、それらを崩壊させるように炸裂した作品、それが極上のパルプだ。
わたしは読みながら過去においてそのように熱くはぜちった作品をいくつも思い出した。平林たい子の一連の極道小説や石川淳の知的でかつドスのきいた小説群、いわゆるバイオレンス小説とか任侠小説といわれるもの、RGGのビデオゲーム、ヤクザ映画や漫画のたぐいにいたるまで、すべてのエッセンスが「ババヤガの夜」に流れ込んでいる。後書きで作者は「ジョー・R・ランズデール、ジェイムズ・サリス、テリー・ホワイト、フラナリー・オコナー、ジェイムズ・エルロイ。少しでも、僅かでも、ちょっとでいいから自分もそこに近付きたくて、肩にガチガチに力を入れながら書いた」と告白しいているが、わたしはさらにリザ・コディや、ドリス・レッシングとすら共鳴関係にあると思った。日本の作品だけでなく世界のさまざまな作品を想起させる広がりを持つからこそダガー賞を獲得できたのだろう。
どんな話なのか。
おそらく物語が始まるのは1970年代後半だろう。女だがケンカに強くて暴力に取り憑かれた新道依子が、内樹というヤクザの令嬢のボディーガード兼運転手になる。尚子というこの令嬢は女らしい女になることを父親に強制され、いろいろな習い事に励んでいる。内樹という親分のファンタジー、女は女らしくあらねばならぬというファンタジーを実現させられているのが尚子だ。不細工でどこの国の血が混じっているのかもわからない新道依子とは住む世界が違う女だ。この異形の女に尚子は徐々に親しみを感じるようになる。そして新道依子が尚子のフィアンセ(サディスティックなヤクザ者で、変態的な性的嗜好を持つ男)の鼻をへし折ったとき(文字通り依子は男の「鼻を折り」、「顔を潰した」のである)、新道依子と尚子は報復を逃れるために逃避行の旅に出る。それは四十年という長い旅になるのだ。
尚子は依子を見て、父親の愛玩物である自分から抜け出そうとする。そしてその後四十年間不自由な暮らしを強いられ、さらには男どもとの闘いのなかで左足さえ失うだろう。男の(家父長的な)ファンタジー空間から抜け出そうとした代償がこれだ。この作品がフェミニズムの観点から書かれているのは明白である。
では新道依子とは何者なのか。彼女は荒ぶる力、彼女が子供のころ祖母から語り聞かされた「鬼婆(ババヤガ)」である。良いことも悪いこともする。敵か味方か分からない。そんな力だ。しかし心のきれいな女であれば鬼婆は助けてくれるという。依子はそのような力にあこがれ、実際そのような力になっている。尚子を触発し、男のファンタジー空間から抜け出す手助けをするのだから。新道依子は男(家父長)という暴力に対抗する暴力だとわたしは思う。彼女に内面がないという批判はあたらない。彼女は個として存在しているのではない。力なのだ。その力に触れたとき男のファンタジー空間に閉ざされて生きていた女は別の生き方を夢見るようになる。イギリスのフェミニズム運動でもおなじだ。その中心にはいつも暴力的と言っていい力が存在していた。その力が女性たちを鼓舞していた。
この闘いは現在も進行中である。多くの人々が不自由を強いられ、その闘いのために左足を失っている。世界中で繰り広げられているこの闘いが最後の一文「明るい太陽が、泥と血でできた依子の足跡を照らして乾かす。波が、寄せては返す。何度も何度も、寄せては返す」に暗示されているようで、わたしは深く感じ入った。すぐれたパルプというものは、荒唐無稽、現実離れした話のようで、じつは確かな世界認識に支えられているものだ。