マージェリー・アリンガムはどうも苦手だ。ミステリ作家と分類されているもののそこにはファンタジーやSFの要素が組み込まれている。しかしそれはいいのだ。問題は物語にさっぱりのめりこめないという点である。わたしがミステリを読むとき、事件が起きるまではゆっくりと読む。しかし人が死ぬと急に読書のペースが上がって、一気に最後まで読んだりする。ところがアリンガムの場合は事件が起きてもなんだか興が乗らない。ミステリにミステリ以外の要素が含まれた作品は好きなはずなのに、アリンガムの場合だけはいつも最後までのろのろと読む。キャンピオンという探偵も結構面白い男なのだ。本作では食事の席をギャングたちに襲われたとき、とんでもないいたずらをやって笑わせてくれた。他の登場人物は……まあ、普通である。よくもないが、悪くもない。なのに物語に引き込まれない。いったいなぜなのだろう。
退屈なミステリ作家というとドロシー・セイヤーズがよく挙げられるが、あれはかえって面白い。彼女は事件からセンセーショナリズムを徹底的に排除しようとしているところが興味深いのだ。しかしアリンガムは読者を楽しませようと趣向を凝らしている。でもわたしにはなんとなく詰まらない。
そんなことを考えながら本作を読んでいったのだが、おそらく理由の一つはこれだろうというものに思い当たった。つまり、装いは凝らされているが、ミステリの核となる謎自体に興味がわかないのである。
本作はキャンピオン探偵がはじめて登場する記念すべき作品である。内容はこうだ。ワイアット・ペトリという男がブラック・ダドレイというお屋敷に客を呼び週末にパーティーを開く。ところがみんなでパーラーゲームをやっている最中にペトリの叔父が殺害される。さらにその後、お屋敷はギャングどもに乗っ取られ、客はある品物をギャングに提出しないかぎり、ずっとお屋敷に監禁されるということになる。
あまりできのよくないミステリにおいては、事件が起きたあと、読者が味気ない捜査に長々とつきあわされるということがありうるが、本作ではギャングの登場、お屋敷の秘密の部屋、ちょっとしたロマンスという具合に、読者を楽しませる仕掛けがいくつも用意してある。だが、作品の中心となるペトリの叔父の殺人にはなんらの魅惑も感じないし、作者にとってもそこは重要なポイントではないような感じなのだ。事件をきっかけに日常の裏面が見えてくるとか、現実の様相が一変するとか、そういうことにはアリンガムは興味がないようなのである。舞台の上はなかなか賑やかで、表面的には楽しい芝居が展開するが、深みがあるかと言われると……どうなのだろう、わたしにはないように思われる。それともわたしはなにかを見落としているのだろうか。