ルビー・ファーガソンは R. C. Ashby というペンネームで He Arrived at Dusk というミステリを書いていてこれがすごい。ホラー小説だと思って読み進んでいくと最後に推理小説だったことが判明するのだ。From Dusk Till Dawn というタランティーノが脚本を書いた映画があって、ノワール風の犯罪映画かと思っていたら途中でホラー映画に変わり唖然とさせられるが、ああいう作品が好きならぜひとも He Arrived at Dusk は読むべきである。一般にはあまり知られていないが、愛好者のあいだでは評価の高い作品である。わたしはミステリの本質はこのジャンルの転換にあるのではないかとひそかに考えている。
1962年に出された「眠れない客」はミステリではない。しかしやはりある出来事をきっかけに不意に物語の様相が変化する。ジェイン・オースティン風の風俗小説かと思っていたら、疑惑が疑惑を呼ぶサスペンス小説に転換してしまうのである。デリアという30にほど近い未婚のイギリス人女性が、80になんなんとする名付け親の女性のもとへ遊びに行く。アイダというこの女性はたいへんな金持ちで、またひどく気が若い。アウシュビッツの収容所で知り合った友人を自分の家に住まわせ(そう、この作品には過酷な現代の歴史が刻み込まれている)、にぎやかに毎日を送っていた。ここに集まる人々がじつに個性豊かに書き分けられており、とりわけアイダのおちゃめとも言えるお婆ちゃんぶりは精彩を放っている。デリアは彼女の家に来たあとも難民キャンプで社会的弱者のために働こうとするまじめな女性だが、アイダはそれが気に食わない。あんな連中はほっておいて楽しく遊び暮らすべきだと言い争いになることもあるのだが、それでも彼らは仲よく一つ屋根のもとで暮らしていく。
この性格劇が最後まで続くのかと思っていたら、物語が三分の二ほど進んだところでとある事件が起きる。ネタばらしにならないように筋の紹介はしないが、それをきっかけに物語の雰囲気は変質する。そうか、He Arrived at Dusk で見せた離れ業のようなジャンルの転換を、この作家はほかの作品でも用いているのか。
十九世紀後半から二十世紀の初頭にかけて物語に対する批判意識が芽ばえた。探偵小説はそういう事態を端的に示している。ホームズものには間抜けな警察、たとえばレストレイド警部のような存在が必要だ。警部は事件現場を見て単純なある物語を作り上げる(これは浮浪者の犯行である、とか、いつも悪さをはたらいている誰それのしわざにちがいない、と彼は判断する)が、ホームズはべつの物語を作り上げ、それが正しいという証拠集めをする。つまり警部の物語はホームズの物語によって批判されるのである。フロイトの精神分析が探偵小説とよく比較されるのも、彼が意識の物語を無意識の物語によって批判したからである。「バスカヴィル家の犬」などは地元の人が呪いとか伝説によって説明していた事象を、ホームズがそれとはまったくべつの理性的な物語によって批判しているのである。He Arrived at Dusk はそういう物語批判の構造をジャンルの転換という思い切った形で明示化したといえる。
「眠れない客」の主人公デリアは真面目な女性で好感が持てるが、ひどくナイーブな性格で人の云うことをそのまま信じてしまうところがある。世の中の、あるいは人間の薄汚い側面を体験せずに育ってきたのだろう。彼女は小説の最後のほうでナイーブな目に映っていた人々の姿と、その背後に隠された醜い人々の姿のギャップに直面し、「わたしはどっちの物語を信じたらいいの?」と叫ぶ。やはりここにも物語批判が存在するだろう。
しかし「眠れない客」を読みながら、ルビー・ファーガソンの手法は探偵小説の伝統以外の点からも考えるべきではないかと思った。人間への不信感、見せかけと本心の乖離、ファーガソンの小説の分裂した印象、それは第二次世界大戦や強制収容所の体験からも来ているのではないか。それが人間性や社会にもたらした亀裂が彼女の作品に影を落としているのではないか。
この作品は上等とは言えないかも知れないが、いろいろと考えるべき問題を含んでいると思う。