最近、檀一雄の「真説石川五右衛門」、石川淳の「狂風記」、そしてテッパーマンの「すまないね、ミスタ・ヒロヒト」を立てつづけに読み、パルプ小説とはなんだろうと思った。どの作品もほとんど人間を越えたエネルギーを表現しようとしている。そして人間を越えるあまり、そのエネルギーは「死」に接近している。わたしはパルプ小説のよいところはこのエネルギーの暴走にあると思っているが、それが日本の文壇の大御所たちの作品にも見られることに気づき、これはどういうことだろうと思った。考えてみると石川淳のほとんどの長編小説は極上のパルプではないのか。檀一雄はほとんど読んだことがないのでなんとも言えないが、「五右衛門」を読むかぎり、パルプ的な色彩が強いのではないか。生き方自体がある種のエネルギーの暴走のような人だったから。
テッパーマンの「すまないね、ミスタ・ヒロヒト」は「自殺部隊」ものの一作である。自殺部隊はFBIの組織のなかでもっとも危険な任務を負う、命知らずの三名からなる部隊である。もともとは五名くらいいたようなのだが、任務の最中に命を落としていき、今は三名である。今回の任務はFBIのエージェントを殺害しチリに逃げたガストン・ザムベッタを捕らえ(殺し)、またザムベッタが日本に造船所を売ろうとする計画をつぶすことである。なにしろ第二次世界大戦中の話だから、アメリカと日本は敵国関係。日本人は「ジャップ」と呼ばれ、油断も隙もない悪党として描かれている。
テッパーマンのこのシリーズがいいのは、物語の一行目からアクションが開始され、それが終わりまで途切れないところである。次から次へとたたきつけるような暴力シーンがつづき、いつも one sitting か two sittings で読み終えてしまう。本作も冒頭からいきなり自殺部隊の一人スティーブン・クローがザムベッタの手下やドイツ人、日本人の敵をばったばったと倒していく。このエネルギーの爆発が最後までつづくのだから「自殺部隊」はたまらない。たいていこうした物語では、アクションシーンのあと落ち着いた場面に転換するのだが、テッパーマンはそんなことをしない。ひたすらエネルギーを発散するのだ。そのかわり物語は短めだ。線香花火のようにバチバチと火の粉を撒き散らし、終わるときはシュンと一瞬で消え去る。読者はあとに残る火薬の匂いをかいで、その短い、しかし華やかな光景を思い出し余韻を楽しむというわけだ。
わたしは「五右衛門」「狂風記」「すまないね、ミスタ・ヒロヒト」を立てつづけに読んで、いずれの作品からもまったく同じ感銘を受けた。「五右衛門」は講談のような物語であり、「狂風記」は風格のある奇譚であり、「すまないね、ミスタ・ヒロヒト」は疑いようのないパルプ。三者三様の語り口を持ちながらも、エネルギーの集中と爆発を描く点では共通している。そしてどれも小説とはいいがたい、その手前の未熟さの地点にとどまっている。思いも寄らない直線を引いてしまったわたしは、戸惑いながらも、しかし考えなければならない問題にぶつかったような気がしている。