アメリカの女流作家E.D.E.N.サウスワース(1819-1899)の一番有名な小説である。二百万部売れたと言うから人気のほどが知れる。ここでレビューするのは二部あるうちの最初の第一部である。
わたしが興味を抱いたのはこの作品における固有名の扱い、それが伝達される過程である。二箇所だけ例をあげる。
第一の箇所はウォーフィールド大佐と青年ハーバート・グレイソンが会話をする場面だ。後者は前者に、困難に立ち向かいながらもけなげに息子を育てるある女性の話をするのだが、ここでは彼女の名前(固有名)が一切用いられずに会話が進行する。名前の代わりに「友人の母」とか「そのたくましい女性」などといった表現で彼女が示されるのである。それを聞いていた主人公キャピトーラは青年が帰ったあと、大佐にこう言う。「その女の人を支援するとおじさんはいうけど、名前を知らないじゃない!」
じつはこの女性は、かつてウォーフィールド大佐の恋人であったのだ。ところが彼女が同じ軍人の仲間であるルノワール大佐といっしょにいるところを見て、裏切られたと思い、彼女と絶縁してしまう。トラウマとまでは言わないが、決定的な裏切りの記憶と結びついた固有名が伏せられた形で大佐のもとに届くわけである。もちろん固有名が明らかになるときは、ドラマチックな瞬間になる。
第二の箇所は、不義を疑われたこの女性マラー・ロックが、自分を破滅に追いやったルノワール大佐の固有名をつかみそこねる部分である。筋の紹介は省くけれど、彼女はルノワール大佐と面談することになる。しかし彼女はこれから面談する相手がルノワールであることを知らないのだ。彼女の息子はその名を一度聞いているのだが、なぜか失念し、母親に「ちょっと変わった名前」の人、「ドゥ・モインズとかドゥ・ボーンズとかドゥ・ソールみたいな名前」の人と告げるだけなのである。さらに面談する相手が到着し、召使いが彼女のもとに男の名刺を持ってくるのだが、活字が古英語のそれであるため、彼女にはまるで読み取れない。男の固有名は彼女のもとに届いているのだが、それはいわば微弱な電波のようなもので、ひどく聞き取りにくいか、べつの言葉のように聞きなされてしまうのである。そして彼女と面談相手の男が顔を突き合わせ、相手を認めた瞬間は、固有名が発せられる瞬間、ドラマの一瞬である。メロドラマに特徴的な瞬間の一つ、それは「きみの名は」の一瞬ではないだろうか。
このことに気づいてからわたしは「隠された手」が急に面白くなった。正直に言うと、キャピトーラの冒険以外の部分は、「くさい」ドラマが展開するばかりでちっとも面白くなかったのだ。しかし固有名の問題に気づいてからは、シニフィアンの伝達の問題があちこちに隠されていることに気づき、興味を惹かれだした。
簡単に筋をまとめておこう。
ルノワール大佐は悪徳貴族である。彼は遺産を受け継ぐために、自分よりも先に遺産を受け継ぐ権利を持つある女の子を殺そうとする。が、たまたま彼女は魔の手を逃れ、ニューヨークのスラム街で十歳になるまで成長する。これが主人公のキャピトーラである。スラム街で育ったから、お転婆で、勇猛果敢、しかも機転がきく女の子だ。
さて産婆さんは死に際にウォーフィールド大佐に事情を打ち明け、キャピトーラの世話を頼む。大佐はさっそくニューヨークへ行き、彼女を探し出し、自分の屋敷で育てることにする。
ここで悪辣なルノワール大佐がまた悪事をたくらむ。自分の地位を脅かす女がまだ生きていることを知り、彼は悪党どもを雇い、彼女を無き者にしようとするのだ。しかしキャピトーラもただ者ではない。なにものをも怖れぬ彼女は、命を狙う悪党どものたくらみを次々とくじいていく。
Monday, February 18, 2019
エドワード・アタイヤ「残酷な火」
エドワード・アタイヤ(1903-1964)はレバノンに生まれ、オクスフォード大学に学び、スコットランド人の女性と結婚した作家である。自伝や「アラブ人」という評論が有名だが、ミステリも何冊か書いている。ウィキペディアの書誌を見る限り「残酷な火」(61)は彼が書いた最後のミステリ...

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