Wednesday, June 19, 2019

精神分析の今を知るために(5)

ジャック・ラカンはドストエフスキーの言明「神がいなければすべてが許される」をひっくり返して、「神がいなければすべてが禁じられる」と言った。この転倒は神を否定するリベラルな快楽主義者をよりうまく説明する。彼らは快楽の追求に人生を捧げている。しかしこの追求のための空間を保障する外的な権威が存在しないため、彼らは政治的に正しい規則(PC)をみずからにおしつけるのだ。まるで伝統的な道徳よりももっときびしい超自我が彼らを支配しているように。彼らは快楽を追求する際に他者の空間を傷つけたり侵犯するのではないかと怖れ、他者にいやな思いをさせないためのさまざまな規制を設け、みずからの行動を縛る。もちろん自分自身のためにも、同じくらい複雑な規則をつくりあげる。フィットネス、健康食品、リラクセーションなどなどだ。快楽主義者になることぐらい過酷で規制に縛られるものはない。

一方、厳密にこれと対応しているのが、暴力的なくらい直接的な形で神に向かい合う人々である。つまりみずからを、神の意志を実現する手段と考えている人々である。すべてが許されているのは彼らのほうである。原理主義者こそが、キルケゴールのいう「宗教による倫理の保留」を行っている。神の使命を果たすという名目で彼らは何千という人を殺しているのだ。

2010年11月9日にニューヨーク・パブリック・ライブラリで行われたスラヴォイ・ジジェクの講演から

エドワード・アタイヤ「残酷な火」

  エドワード・アタイヤ(1903-1964)はレバノンに生まれ、オクスフォード大学に学び、スコットランド人の女性と結婚した作家である。自伝や「アラブ人」という評論が有名だが、ミステリも何冊か書いている。ウィキペディアの書誌を見る限り「残酷な火」(61)は彼が書いた最後のミステリ...