Wednesday, September 11, 2019

言語を使うこと、教えること

日本人だから日本語を教えることができる、というのは、とんでもない間違いだ。そんな人には助詞の「は」と「が」の使い分けはどうなっているのか、あるいは仮定形の「れば」や「なら」の違いを説明してくれと言えばいい。彼らが考える「規則」とやらに例外がいくらでもあることに気づき、黙り込むだろう。やはり教えるにはそれなりの訓練を受けなければならない。

また、最近は本が読まれなくなり、多少とも古い本、たとえば高橋和巳や武田泰淳あたりでも読んで意味のとれない人が多い。作家も語彙力がどんどん減ってきている。わたしは思想的にはまったく共鳴しないものの、三島由紀夫を読むことが多いのは、彼の語彙力の豊かさに触れることで、自分の日本語を活性化させんがためである。

これはアメリカ人やイギリス人についてもいえることだ。彼らはいろいろな英語を使っているが、言語を使えるからといって、教えられるとはかぎらない。日本人はその点がわからっておらず、たんにアメリカ人だからという理由で英語について教えを請うたりする。しかし文法的な説明がきちんとできるようになるには、彼らも相当勉強しなければならないのだ。とりわけアメリカでは学校で文法を教えないことが多いから、大学生あたりでも「主語」とか「形容詞」とか「時制」なんて言葉を知らない人がいる。こういう連中に文法の質問をしても意味がない。

わたしは翻訳をしていて、充分に意味のとれない文章にぶつかることがよくある。その場合は、文学の修養を受けた、いわゆる教養のある人々に質問をすることにしている。わたしが訳す作品は百年以上も前のヴィクトリア朝時代の本も含まれているから、その当時の文章になれた人でないと、とんちんかんな答しか返ってこない。スインバーンの詩とかペイターあたりの一節に関する質問は、一般のネイティブには荷が重すぎる。知った振りをして答えるかも知れないが、その内容はめちゃくちゃでまるで参考にならない。自分で考え抜いた方がましなくらいである。

われわれは言語を「使いこなして」いると思い込んでいるが、それは間違いなのだ。言語を空気のように、透明なもののように思っている人は、じつは言語を知らない。自国語であってもその使用に躓きを経験する人のほうが、言語の実相に近づいている。

独逸語大講座(20)

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