わたしはドゥルーズをさほど読んでいないので間違っているかも知れないが、彼が「差異と反復」で展開している議論、多数の潜在的・部分的対象が、ファルスによってまとめ上げられていく過程は、やはりマルクスの価値形態論と同じ論述の過程を経ていると思う。
フロイトの原父殺しの物語もある体系が形成される過程を示すものだが、あれだってメタレベルがいかに発生するかを説明するものであり、価値形態論と連続性を持っているはずだ。マルクスの議論はその後のいろいろな分野での議論の原型となっているのである。
価値形態論は、単純な形態から拡大された形態へと論を進めているけれど、実際の思考は完成された貨幣形態からその「起源」へと遡行していったはずである。マルクスはその思考過程を逆にして「起源」から貨幣形態へと論を進めた。われわれは単純なものから複雑なものへと歴史が進展していくように思い、マルクスの価値形態論を見ても、そこに歴史的・時間的変遷を見ようとしてしまうが、じつはあれは歴史的・時間的「起源」ではない。強いて言えば論理的な「起源」である。貨幣という単数によるシステムが形成される「以前」には、モノの多中心的な世界があった、と考えてはならないだろう。後者は前者に内在する論理であり、マルクスはそれを抽象力によって導き出したのである。
逆に言うと、抽象力でなければ思考できない、ある種の奇怪な構造がそこにはあるということだ。ジジェクは新著「Sex and the Failed Absolute」で、単なるオブジェクト・レベルからメタレベルが立ち現れる、パラドクスに満ちた構造について語っている。それは主体の形成される過程でもある。これを読んでいると、いろいろな問題が群がりわいてきて、ときどき呆然としてしまう。