われわれは近代化を経た後の啓蒙された主体である、と誰もが思っている。神さまはいない。神さまは死んだのだ。この世界は科学的にとらえなければならない。みんなそう考えている。
しかしそういうシニカルな主体こそ、神への信仰に取り憑かれているのである。これが現代のイデオロギー状況だ。
わたしはマリー・コレーリという作家の「悪魔の悲しみ」という本を訳した。この作品の中でいちばん面白いと思ったところは、神を信じていない主体が、神を信じている他者を必要としているということだ。たとえば主人公であり語り手であるジェフリーは神を信じていない無神論者だ。そして男はどんなふしだらなことをしてもいいのだと思い込んでいる。ところが彼は、妻には清純で信仰深くあってほしいと願う。自分が無神論者なら妻も無神論者でかまわないではないかと思うのだが、彼は美しい妻が神さまも信じず、堕落した本を読み、徹頭徹尾「物質主義的」であることを知り絶望する。そのあまり自殺を考えさえするのだ。
なぜ自殺まで考えるのか。それほどまでに彼は神を信じる他者を必要としているからである。これは奇妙な状況だ。彼自身は神を信じない。しかし神を信じる他者を絶対的に必要としている。彼は、彼の代わりに神を信じる人を必要としている。
主体と他者は不思議な関係性を持っている。最近、トイレットペーパーの買いだめが問題になった。トイレットペーパーは別に不足していない。全国に行き渡るだけの量がある。生産能力もある。そしてそのことを誰もが知っている。ところが、人々は買いだめに走るのだ。そこにはこんな論理が働いている。
「自分は馬鹿じゃない。自分はトイレットペーパーの供給体制が十分であることを知っている。自分は啓蒙された主体なのだ。しかし他者はそれを知らないで、買いだめに走るだろう。その結果、店からトイレットペーパーがなくなるかもしれない。そうなると困るから、自分も買いだめに走ろう」
主体の行動は主体によって「主体的」に決定されるわけではない。実際は他者との関係にがんじがらめにからめとられている。信仰のようなごくごく「内的」な事柄においても、それは他者との関係において決定されている。そして主体は、みずからが否定しているはずの他者の行為を、みずから行ってしまうのである。
エドワード・アタイヤ「残酷な火」
エドワード・アタイヤ(1903-1964)はレバノンに生まれ、オクスフォード大学に学び、スコットランド人の女性と結婚した作家である。自伝や「アラブ人」という評論が有名だが、ミステリも何冊か書いている。ウィキペディアの書誌を見る限り「残酷な火」(61)は彼が書いた最後のミステリ...

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「ミセス・バルフェイムは殺人の決心をした」という一文で本作ははじまる。 ミセス・バルフェイムは当時で云う「新しい女」の一人である。家に閉じこもる古いタイプの女性ではなく、男性顔負けの知的な会話もすれば、地域の社交をリードしもする。 彼女の良人デイブは考え方がやや古い政治家...
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ジョン・ラッセル・ファーンが1957年に書いたミステリ。おそらくファーンが書いたミステリのなかでももっとも出来のよい一作ではないか。 テリーという映写技師が借金に困り、とうとう自分が勤める映画館の金庫から金を盗むことになる。もともとこの映画館には泥棒がよく入っていたので、偽装する...